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no.106 コンテンポラリーダンスをめぐる批評言語のイケてなさについて (06.3.13

 

 「この人達絶対韓国人だよ」

  そう言ったのは当HP管理人安藤ヒヤシンス子。さる2月1日に神楽坂ディ・プラッツにて行われた公演企画「ダンスが見たい!〈新人シリーズ4〉」にて。我々ゴキブリコンビナート関係者数名は。滝田スピロ平太作品「甦る陰嚢」を鑑賞しに会場に来ていたわけであるが、ダンスフェスティバルなので、この日も複数ユニットの発表が連続する形式となっており、全く趣向の違う2作品も観るハメになった。で、ピンクというのを観た時のヒヤシンス子の反応が上のものだった。いくら自分の理解の範疇を越えるものに出会ったからといって外人扱いはないだろう。「韓国人じゃないよ。きっとどこかの学生さんだよ」と、反論を試みるが、ヒヤシンス子頑として譲らない。
 で、結局アレは何だったのか。ネットを駆使して調べてみよう。どうやら1999年頃から活動している女性三人のダンスユニットらしい。学生じゃない!サイト内にさらに詳しいプロフィールを発見!どれどれ。「ピンクが目的とするのは、規律で作り上げたものが様々な形で崩壊され、その先に見える快感を味わい深みにはまりながらも、ひゅっとまた規律へと舞い戻れてしまう体の行き来です。  糸がグチャグチャにどうしようもない位からみ合っていたのが一瞬で嘘みたいにすっと一本になること、規律から抜け出す時の恐ろしい程の潔さ、崩壊に崩壊が重なり規律があったことすら忘れてしまう程違う世界に行ってしまうスリル、そういった深みと軽やかさが共存する混沌が目的です。」 何のダダ運動?と言いたくなるほど意味の分からない文章だ。気をつけろ。こんなの書くやつはほんとに韓国人かも知れない!
 
冗談はさておき、この「ダンスが見たい」に足を運ぶのはもはや私にとって3回目で、毎度毎度3グループの鑑賞を余儀なくされるわけであるが、スピロ氏以外の作品は一つ残らず(多分)コンテンポラリーとか言うものであった。世間では流行ってんの?そういうの。舞台芸術界の辺境地帯にいる私ことDr.エクアドルでもどうやら流行っているという噂は、実は聞く。だが、どういう人がどんな風に支持しているのかが見えてこない。まあ、別 に知りたくもないがね。このコラム読んでる人も私とほぼ同レベルの無教養人=ただの庶民派バカだろうから、恐らくコンテンポラリーとか聞いても「君はペット」とかいうドラマで松潤が踊ってた変な踊りぐらいの認識しかないだろう。俺それすら観てないし。ジャニも小雪もファンじゃないし。だからどうでもいいし、深く掘り下げる意欲も別 になかったのだが、断片的に入ってくるコンテンポラリーダンスに関する情報をつなぎ合わせると、驚くべき事実が明らかになった・・・

 発端はスピロ氏が「またネットでけなされてる」とぼやいていたことだ。しかも同じ日の共演者「ピンク」と「ジュールなんとか(ユニット名が長くて覚えられない)」はほめられてて自分だけ厳しく批判されている。しかも尾崎豊呼ばわりだそうだ。尾崎豊に喩えられてしまうなんて俺だったら褒められたと思って喜んでしまうところだが、コンテンポラリーダンス批評の文脈ではもちろんそんなことはあり得ない。面 白そうなので読んでみることにした。http://blog.goo.ne.jp/kmr-sato/e/4dfe6c0632a958db59de3e2358734f9bふむふむ・・・ピンクのダンスには未来があるらしい・・・そうか、韓国人ではなく、未来人のダンスだったのか!道理でわからないわけだ・・・だが、どこか引っかかる、このサイト・・・引っかかるよ・・・
 一月の日記を見てみよう。以下引用

いま、時代は「ぶっちゃけ」じゃなくなってきた。かといって「賢しい人」もあんまり楽しくない(報道の踊り方はむかつくがホリエモン逮捕はひとつのムードをつくるのではないか)。話は違うかも知れないけれど、茶髪なひとたちも近頃ほんと見なくなってきた。時代は清純に向かってます。大事なのは「シャイネス」です。これ舞台上にひっぱり出せたらすごいなー、舞台芸術がもつのベクトルとは正反対のものだろうから、がんばればがんばるだけ消えてしまうもの。だから、こそですねえ、舞台上にあれば貴重だし、リアルだし、魅力的じゃないかと。(で、これ以降ピンクとやらの擁護へとつながっていく)

 えー?そうなの?

80年代が終わり、90年代、21世紀と来て、時代はどんどん恥知らずな方向へ、すなわちシャイネスを捨てる方へ向かってきていて、シャイネスは自尊心もしくは優越感、劣等感で他人との関係を計る心性に由来すると思うわたくしめは、そんな「シャイネスを捨てる」時代の流れが嬉しい限りだと思っていたのに?違うの?
 で、彼は電車の中で荒川洋二とやらを読みながらザ・スミスを聴きながらそんな着想に至ったのだという。そして、ザ・スミスも「少年の赤面 」 を歌うバンドだなと思いに耽るのだった・・・え?スミス?じゃあ未来のバンドはスミス?勘弁してくれよ。スミスなんて久しぶりに聞いたな(ついでに荒川洋二という名前も)。スミスがいずれ再評価される時が来てもいいけど、百年後にして欲しい。
 
さらに読み進めると出るわ出るわ懐かしい人名やらアイテム。松浦寿夫!ドゥルーズ!香山リカ!上野千鶴子!そして「○○すること、○○すること、○○すること」みたいな畳みかけに典型的なあの言い回しの数々!文体!時代は今まさに浅田彰ブーム絶盛期!ねえ、これが未来なの?こんな文体が21世紀批評界のリアルタイムな文体でいいの?
 まあ、この筆者は東大出だし、どう考えてもわたくしめよりIQも教養も高いだろうから、こちらに反論する術などない。たぶん正しいのだろう。正しいと思ってひれ伏すしかないのだろう。だが、言いたい。そんな時代認識いやだと。スミスがバックグラウンドで流れる近未来には抵抗したい。
 彼の東大在籍時を逆算すると蓮實重彦 学長時代に相当することが分かる。在籍時に学長に感化され、「フーコー、ドゥルーズ、デリダ」やら「批評あるいは仮死の祭典」やら読んでスゲーとか勝手に思ってゴダール映画やら見まくってついでにとっくに廃刊の「リュミエール」やら「GS−楽しい知識−」やら「エピステーメー」やら「海」やらどっかの奇特な図書館の閉架図書あさって「これぞ未来の思想!これからはこういうのが来るよね」と思いこんでこういう文体になってしまったのかも知れない。だったらいい。そんなんだったらいい。高偏差値者の時代認識恐るるに足りずだ。でも、そこまで分かりやすいものなのか?インテリなのに?
 僕なんかが思うのは椹木野依が登場した時点で少なくとも
ドゥルーズへの言及ぐらいならともかく「○○すること、○○すること、○○すること」みたいな畳みかけなんてそれこそ恥確定で、それからさらに15年以上経った今でも復権なんてしていないと思うんだけどなにせインテリじゃないからね。印象でしか語れない。とにかく落胆するしかない。インテリさんが指し示す未来への展望に。
 で、ピンクとやらはどうやら黒沢美香の弟子らしくて、この黒沢美香という名前も僕にとっては懐かしい名前で「ああ観た観た。スタジオ200で」って感じなんだけど。彼女自身も当時(スタジオ200とかあった頃)そういうポストモダン言語での理論武装してたよな。まあ、本当は彼女自身じゃなくて当時彼女と組んでた音楽家兼アートディレクション担当がな。全てが懐かしい。

 で、なんかそんなわけでひょんなことから懐かしいもの目白押しの世界に出会ってしまったんだけど。そこでまた象徴的なエピソードが俺(俺とか僕とかわたくしめとか変えまくって読みにくい?現国3だからね)の脳裏をよぎるのだった。

  我々ゴキブリコンビナートもお世話になったガーディアンガーデン演劇祭。もう選考会観に行くこともなくなったが、暇なとき漫然と選考の様子などを見ていたら、ニブロールとかいうコンテンポラリーダンス界ではもう大注目の的みたいなのが出ていて、主宰者のインタビューなんぞを見ていたらどうやら主宰の人は映画監督のジム・ジャームッシュが大好きみたいで、盛んにジャームッシュ、ジャームッシュと。このとき既に2003年だったわけだけど、いいの?21世紀になってジャームッシュなんて名前を聞いたのは後にも先にもこれっきり。いや、別 にいいんだけど。21世紀にジャームッシュ好きな人間が存在してても別に犯罪でも迷惑でもないし、文句言う筋合いでもないんだけど。どうもさっきの批評ブログでの引っかかりとつながるんだよなあ。

 この時点で俺の脳内ではコンテンポラリーダンスを巡る人たちの中ではスミスとジャームッシュとかつてニューアカと呼ばれた思想運動こそが今であり、最先端であり、未来への鍵だというすごい結論に達しつつあるのだけど。なんだか俺がJポップを聴き、少年マンガを読んで笑い、ドラマの「喰いタン」ってマンガとは全然別 物に仕上がっていてマンガ作者が作中で違和感を表明するのも分からないでもないけど、ドラマはドラマで馬鹿馬鹿しくてアレもありだねなんて思ってたりする間に そんな低次元の娯楽にまみれた感性とは別次元のところで全く時間軸の異なる世界が展開しているのだ。そこにあるのは恐るべき停滞である。 ヒヤシンス子 が韓国人呼ばわりしたのも無理はない。コンテンポラリーダンスは庶民(教養の薄いバカ)と同時代を共有しない。それにたずさわる人たちは我々にとってまさに異人(マレビトあ、これ80年代語ね)であり、おなじ日本語を話しながらおそらく意志疎通 の術を持たない宇宙人である。それを外人に喩えるのはある意味正解である。
 まあ、断片的な情報でこんな結論出すのは強引だと思われる読者もいることだろう。だからといってコンテンポラリーダンスへの造詣を深めるなんて気はさらさらない。

 もう一つ行こう。本公演終了後、当HPコーナー「アンケートにお答えします」のためにアンケート読むのだが、最近昔みたいなアンケート用紙裏面 まで非難でぎっしりみたいな怒りのアンケートに出会うことが少なくなった。劇団の作風、ポジションの変化?そんな理由もあるだろうが、悪口は自分のインターネットに書くという時代的な変化も原因の一つだろう。で、周りのやつがいろいろとあそこで悪口書かれたとか教えてくれる。で、出会ったのがこのサイト。この人もコンテンポラリーダンス好きだね。「ナラク」の悪口書いてる。読むと実に元気の出るいい悪口だ。実は当劇団の作風が70年代風なのは80年代型相対主義の徹底化の末にさらにそれを括弧 にくくる(これも80年代に流行った言い回し。わざとだよ)ことでそうなっている。実はそこが弱点だったりもするのだが、この人額面 通り受け取ってる。
エクアドル氏は年齢的にはリアルにオッサンなのではなく、案外若いのではないか。
だって。
インテリにここまで言わせれば大成功である。つまり、仕掛けがバレてない。ってここでバラしてどうするオレ。まあいいや。そもそもバレバレだろ?でもこの人は素直に乗ってくれている。ある意味嬉しい。80年代はスカだったと主張する浅羽通 明あたりと同列に見えるのか?

 うん。オレは確かに80年代の空気の何かに反抗するところに表現の出発点を置いたよ。そして、俺が捨て去った80年代のある部分こそがコンテンポラリーブームを支える軸になっている。それは高邁にいきることへの憧憬だ。80年代が終わり、全庶民がそこから徐々に撤退したとき、その波に乗ることを拒否した人たちの憩いの場としてそれは機能している。断片的な情報からの判断だが、恐らく間違いないね。

 かつて80年代、例えばデートでチェーン店居酒屋なんて恥ずかしいなんて空気が若者達に蔓延していたわけだ。あるいは、ジャンパーなんて呼び方よりブルゾンと呼ぶ方がかっこいいみたいな空気。そんなのとっくに終わっていたと思っていたのに、「いや、そういう感性こそ最先端だ」と驚き桃の木のメッセージを突きつけてくるのがコンテンポラリーダンス及びその批評言語だ。もう、なんというか

カフェバーにでも行ってろ

 なんか時間軸を共有しない世界の住人が対峙しあってお互いに「古くさい」と言い合っている不毛な図が浮かび上がってきた。もうやめよう。論争になれば勝つのはインテリだ。別 に勝ちたくない。でも、私はこれを読んでる読者に問いたい。ジャームッシュとザ・スミスが最先端な世界ってどうよ。

 別に彼らに怒りも恨みもない。ただ、僕なんかが一途に訴え続けているのは「ブルゾンどころかヤッケでいいじゃん。デートも寅壱でいいじゃん」みたいなところなので、ここまで真っ向から主張が対立しているのが面 白いのだ。敵ではない。実は「ヤッケもモードとしてとりこもう」とか言い出しかねない質の悪い奴らがいて、そっちの方が敵であり、むかつく。彼らはそうではない。

 ところで前述の批評ブログでペニノへの言及があるのは興味深い。ペニノってああいうところで支持されているんだね。すごく納得できる。
 


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