Dr.エクアドルのJ-POP大好き目次へもどる。


47)Jの話題もそろそろ旬を過ぎたな(J書編)

 また、読者からのメールだが、「J書」の横山なんとかという人は、横山豊蘭という人らしい。

横山 豊蘭(横山 佳通) 1973年 静岡県生まれ
             1992年 名古屋芸術大学入学
             1994年 東京大学にてアクション書道
                 club diamondhallにてノイズ書道
             1995年 同clubにてアクション書道
                 名古屋TV「おとなになりたい」出演
             1996年 名古屋芸術大学卒業
                  club buddhaにてミラーボール書道
                  同clubにてchinko書道(毒でんぱ)
                  club magoにてTECHNO書道

 「ノイズ書道」!「ミラーボール書道」!「チンコ書道」!「テクノ書道」!なんだそりゃ!もしかして、馬鹿?いいえ、馬鹿ではありません。芸術家なのです。テクノ書道は、テクノのガンガンかかるクラブ空間でみんながおどっている中で巨大な筆で「鵝」とか「龍」とか書くらしい。感性の研ぎ澄まされた人間のやることは、凡人の私らにはさっぱり分かりませんな。  「たけしの誰でもピカソ」にも出たらしい。「Jクラッシク」のネタの時もそうだが、「J」関係はこの番組ネタが多いね。今時若者で芸術にステイタスがあると思っている人間は嫌いなので、この番組は私は見ない。
 彼のことを調べる過程でネットでいろいろと「書」について情報を検索したが、本当に芸術家ってのは私にとってなぞの人種である。例えば、ヤスイケンジという人は、書家でありつつもロックが好きらしくデビッドボウイやプライマル・スクリームの歌詞を習字紙に墨で書き付ける。英語の綴りを縦書きで!ゲンズブールは当然フランス語だ!あと、ビョークが好きらしく、ただ、「びょうく」とか「ビョーク」とか、漢字を当てたやつとかある。それらの作品をネット販売しているらしいが、誰が買うのだろう。そんなのを部屋に飾って楽しいのだろうか。
  福田祥州という人は女性の裸が大好きらしく裸婦ヌードの写真作品が多い。だが、書家でもあり、「裸」一文字の作品をシリーズにしている。「脱」もある。だから恐らく彼の個展ではヌード写 真と「裸」の文字が壁一面に並ぶのだ。何と寒い光景だろう。その寒さこそが芸術なのだろうか。少し観てみたい・・・
  まあ、「書」に別に個人的恨みがあるわけじゃないんだけどね。あ、もしかしたらあるかも。今でもそうだが、小中学生の頃から字がとんでもなく下手だったので、先生によく「字を丁寧に書く習慣をつけないと、大人になってから苦労するよ」と言われた。その度「ケッ」って思って字を丁寧に書く努力など全くしなかったのだ。現代思想では「シニフィエ(意味されるもの)に対するシニフィアン(意味するもの)の優位 」とかいうのがあり、思考において、言葉の重要性は大変なものだそうだ。だから、「文字なんてよめりゃいい」とか、「演劇において、言葉に凝る奴らなんかクソだ」とか思っている私の立場は正しくないということになる。でも、私の演劇は何か知的な啓発を目指しているものではないのだから、「言葉なんてクソだ」でいいじゃねえか。あと、肉体労働者なので、字が下手なために苦労したことは結局ない。

 

 「J」の話題も旬を過ぎたな(J狂言編)

 京都に茂山家という狂言を代々受け継いできた由緒正しい家柄がある。おじいちゃんになると人間国宝になれる羨ましい一族だ。俺も人間国宝になりてえ!何しろ年金払ってないからな。人間国宝になればとりあえず老後に餓死することはないだろうし・・・まあ、3代以上前は水呑み小作人である斎藤家が人間国宝になれるはずあり得ないんだけどね。
 この一族の若い衆がTOPPAとかいう狂言グループを形成し、J狂言という言葉を使うとしたら、彼らがこれに該当するだろうという話を前に書いた。最近、仕事で狂言を紹介する番組の大道具につくことになり、茂山家の狂言を直に観る機会を得た。TOPPAの作品ではなく、おじいちゃん連中を含めた茂山家の狂言作品であったが・・・
 紹介された作品は「ムツゴロウ」という題名だった。これがすこし衝撃だった。伝統芸能に対する私の先入観を覆すものだったのだ。  まず、この題名が示す「ムツゴロウ」とは、もちろん動物と麻雀が大好きなあの人のことではなく、ハゼ科のあのお魚のことである。干拓で住処を奪われたムツゴロウが人間に復讐するというお話である。ちょっと待て、それは最近の話じゃないか?一体どういうことなんだ!  何と狂言は新作が現在も作られ続ける「リアルタイム」な芸術だというのだ。そして、「ムツゴロウ」は現代の話なのだ。じゃあ、現代人みたいに普通 にしゃべるのか?背広とか洋服を着た人が出てくるのか?
 舞台はゴルフ場のシーンから始まる。ゴルフ場?ある会社の社長と重役らしき男の会話。背広は着ていない。狂言らしい羽織袴みたいな和服。しかし、首からこれ見よがしにぶら下がっている謎の布きれ。ネクタイだ!ネクタイだけ洋服だ!二人、柄の長い謎のトンカチのようなモノを振り回している。ゴルフクラブだ!ウッドでも、パターでもドライバーでもない変なゴルフクラブだ!  口調は伝統芸能によく見られるあの変なしゃべり方。何をいっても「あう〜あう〜」って聞こえるやつ。だが、歌舞伎より聞き取りやすいし、現代口語調に文体も近く、意味がとりやすい。社長がクラブを模した変な棒を一振り。テンテケテンテケテンテン・・・(名も知らぬ 和楽器によるBGM)ポーン(多分鼓)。そこでセリフ「ほ〜るいんわ〜んですな」。ホールインワン!  なんだこれは!面白い!ずっと笑いながらモニター画面に見入ってしまった。この後、ムツゴロウに扮した不気味な集団が登場し、社長以下人間二人を干拓の件で責めなじり、ムツゴロウの気持ちが少しでも分かるならムツゴロウの求愛行動その他生活習慣をマネして見ろとわけ分からない脅しをかけ、さんざん下らない変な動きを強制し、あざ笑い、あげくには死んでいった魚たちの怨霊と称するさらに不気味な集団が現れ・・・いろいろあって、人間二人がムツゴロウの顔に整形させられて劇終!
 格調高き伝統芸能がこれでいいのか。面白い!確かに面白いが、これでいいのか。3代以上前は水呑み小作人である私が口をきいたこともないハイクラスの方々が何万円という観劇料を払って観に行く芸術がこんなものでいいのか?  「それでいいのだ。狂言はそもそも大衆向けの下らなくて楽しい芸能だった。これが本来の姿なのだ」こういう意見を吐く人間は少なからずいるであろう。しかし、私はそういうことをいけしゃあしゃあとのたまう人間が嫌いだ。そこには欺瞞がある。
 確かに私は面白いと感じたが、それは、伝統芸能は何かシックで厳かなものだという先入観があってのことだ。先入観とのギャップで面 白いと感じたのだ。そのままの内容で普通の現代劇として発表されていたら別に何とも思わなかったことだろう。だから、その面 白さはジャンルへの批評的な視点(ただし、低次元の)を導入したメタ・ジャンル的な面 白さだといえよう。
 ジャンル的なギャップを導入するのは別にいい。例えば高度な細密画の油絵で4コマギャグマンガを書いたとしよう。これの発表の場が例えば少年ジャンプだったら、それは大衆の側からの揶揄あるいは挑戦であり、私は支持してもいい。しかし、それが、「ポップ・アートだ」とか称して本当の芸術の場で美術館や個展で美術作品として提示されたなら、それは、イヤミであり、権威の拡張作業でしかない。大衆的なものをすくい上げているようでいて、実は優越感をまき散らしているのだ。今はいなくなった美術評論家の布施英利がかつて垂れ流した「ドラゴンボールは現代美術だ」といった発言が低俗な娯楽として貶められていたマンガを救っているようでいて実はマンガ本来の低俗な娯楽としての輝きを最大限に辱めている質の悪い権威主義的発言でしかないように。
 だから、「ムツゴロウ」の面白さは非常に危ういものだと思う。国家に保護され、特権階級のみを相手にして行われる芸術行為に関して「実はこんなにポップなんだよ〜」という必要以上の喧伝は許されていいものではない。名もなく貧しい大衆をさらに追いつめ困惑させたいといういじめ心理にもよく似た残酷な欲望に取り憑かれてそうしているのなら話は別 だけど・・・  何でもかんでもポップになればいいってもんじゃないんだよ。

Jの話題も旬を過ぎたな(Jクラッシック編)

 Jクラッシクは、高嶋ちさ子という人がいるという話を前にしたと思う。他にもいるらしい。知り合いがJ−WAVEを聴いていたところ、村治佳織という人もJクラッシクと呼ばれているという。

村治佳織:東京生まれ。3歳より父、村治昇の手ほどきによりギターを始める。10歳より福田進一氏に師事し、そのころから様々なコンクールで賞を取りまくる。15歳でデビューアルバム。エコールノルマルに留学・・・

 別にJっていうよりまっとうなクラッシック界のニューホープじゃないの?もう、どうでもよくなってきたよ。誰がJクラッシックでもいいよ。そのラジオ番組でJクラッシックとして紹介されていたのもただの言葉のあやだろ?レトリックだろ?もう別 にJに意味なんてないよ。

 J文学もそろそろ死語だしね。


Dr.エクアドルのJ-POP大好き目次へもどる。