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ヒトエちゃんのソロについて

 スピードの中で一番人気が少ないといわれるヒトエちゃん。本職が大道具なので、NHKの番組の裏方につくことも多いが、ポップジャムのカメラリハーサルで他のメンバーが流して歌い、踊る中、一人憑かれたように一心に踊り狂うヒトエちゃんを観て以来、ファンになってしまった。スピードの中で一人だけ典型的な沖縄顔(人種的にはアイヌ人と同じルーツの縄文人の顔)のヒトエちゃん。ジャマイカ人になりたいとのたまうヒトエちゃん。俺は応援してるぜ。さて、そんなヒトエちゃん待望のソロだが・・・まだ曲の全貌を知らないし、ビデオクリップも全部観てないままチャート下降になってしまった。断片から判断する限りは、・・・伊秩の限界を感じる・・・ビデオクリップではやはり一生懸命に首を振り、腰をグラインドさせて一心に踊るヒトエちゃん。スタジオアルタの2F、3Fにいっぱいいるネガ顔人間。5秒毎に衣装とセットが代わるゴージャスなビデオクリップだ。だが・・・いかんせん曲がいまいち。とにかく詞がダサい。クールじゃない。そんなに本格的なヒップホップなアプローチをしろとはいえない。所詮スピードだから。だが、金はあるんだから、向こうのSWVとか、TOTALあたりのプロデューサーとかに依頼できなかったのか。スピードの時は気にならなかったのだが、やはり伊秩がいくら器用なコンポーザー、アレンジャーだとしても、所詮アイドル青春ポップスの域を出てない。見劣りする。うーん残念。でも、俺は応援しているぜ、ヒトエちゃん。早くビデオクリップを全編観たいもんだ。


ガクトのソロについて

最強の女装軍団、マリス・ミゼルは素晴らしかった。ダサさも度が過ぎると、感動さえ覚える。それは我々ゴキブリコンビナートのコンセプトですらある。そして、ビジュアル系の究極は宝塚的なものだという真理。彼らの活動には批評性すら感じた。こいつらただのヤンキーじゃないな。と思わせる何かがあった。では、ただのヤンキーではなくて、何なのかというとメタ・ヤンキーなのだと思う。ビジュアル系ロックが新種のヤンキー文化であることに異論をはさむものはいないと思うが、自分がヤンキー文化に属していることを自覚したからといって、それで他のヤンキーより1ランク高等なヤンキーになれるわけではない。自分がダサい人間だと自覚したところでダサさがそれで幾分か減ったりなんかしない。それでもこの真理を表現してしまうことこそが批評性であり、メタ・ヤンキー道なのだと思う。批評性などと言う偉そうな言葉はあまり使いたくないが、他にいい言葉が思いつかないのでここではあえて使おう。自分が全くお洒落な人間でないことを自覚したうえで、少しでも「オシャレな人間」に近づく為の改善策を模索するのではなく、むしろ積極的にダサさのステレオタイプを追求することで、自らのお洒落でなさを相対化し、相対化したところで何の逃げ道もないところに諦念のエクスタシーを見いだすゴキブリコンビナートの姿勢も同じように批評的であり、メタ・ヤンキー道を邁進しているといえるだろう。すると、マリス・ミゼルこそ、我々のライバルにしてアイドルだったといえる。そういう意味でマリス・ミゼルが表紙のクイック・ジャパン誌にゴキブリコンビナートの紹介が載るということは全く正しいことだった。

 最近のビジュアル系があまり面白くないのは単にダサいからではない。十分にビジュアル系じゃないからだ。今のキヨハルとか全然ダメだ。何を考えているんだ。ビジュアル系はパンクではない。今のバクチクとかシャフトとかいった連中もダメだ。ビジュアル系はノイズではない。カジュアルなビジュアル系よ、滅びよ。髪を逆立て、おしろいとシャドーを顔に塗りたくり、謎の生物たれ。さて、マリス・ミゼルを脱退したガクト。ベルバラみたいな狂気の女装をやめている。かといってそれに取って代わるインパクトのあるファッションを身にまとっているわけでもない。おまけにルナシーのようなアップテンポ・バラード。何の面白味も感じない。地に堕ちたり、ガクト。救いはただ一つ、歌っている横にいるビジュアル系のオーソドックスなお化粧をしたバイオリニストさんだ。ここに突破口がある。お化粧フルオーケストラを従えて歌い、踊れガクト。そうすればきっと少しは面白い。そして批評性がある。

  Gackt      QuickJapan vol.23

(ちなみにQuickJapan 表紙はGacktではなくMana)


坂本龍一 Energy Flow(ウラBTTB)について

坂本龍一氏の作品「Energy Flow(ウラBTTB)」が売れに売れている。TVのCDランキング番組で3週間も、4週間もトップをキープしている。どうも納得が行かない。気分がよくない。J-popファンの私としては、J-pop以外に余り売れて欲しくない。坂本龍一はJ-popではない。じゃあ、何なのか?

かつて坂本龍一の時代というものがあった。それは、まさに昭和41年生まれの私ことDr.エクアドルの青春期だ。そう、私はまさにYMO世代の人間なのだ。だが、私は自分の青春時代の若者文化について屈折した感情がある。愛と憎しみの入り交じった感情が。この気持ちがどういうものか話し出すとものすごく長くなるのでここでは何も語らない。ただ、これだけ言っておこう。なにはともあれYMOは解散し、坂本龍一の時代はその後も続いたが、それも終わった、そして、J-popの時代が来た、そして、私はJ-popをとても愛していると。この期に及んでJ-popの時代が終わり、坂本龍一の時代が始まって欲しくないのだ。坂本龍一の権威は今後も大して衰えることはないだろう。文化にステイタスを求める人間はどんな時代も常に居続けるからだ。それは、それでいい。だが、そんな人はもう片隅にいて欲しい。そして、マイナーの特権意識でも育みながら勝手に楽しくやってて欲しい。どの音楽よりどの音楽の方が高級だとか、あの音楽はダサいからダメだとか。もうそういう議論は聞きたくない。みんなダサくていいじゃないか。ダサい音楽万歳。J-pop万歳。去れ、坂本龍一!

 とか言ってたら、今週、ある番組では1位、鈴木あみ、2位、浜崎あゆみとなってた。そうでなくちゃ。やはり、テクノは小室ファミリーだ。小室ファミリー大好き。


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