また、アレに遭遇してしまった。2度目だ。一体なんだろうアレは。すごく不思議
だ。そして洗練されている。でも、何を意図して作られたものなのか全く不明だ。ア
ート?アートっぽくはある。ギャグ?確かに笑ってる客もいる。何がおかしいのかさ
っぱり分からないが。笑うところもあるらしい。演劇?一応演劇というジャンルに入
るらしい。
私にとって他人の演劇を観に行くという行為は、絶対的な他者に出会うことを意味
する。「もう少しここを何とかすべきではないか」とか、「あの辺が参考になり、触発された」とか、「あれは私がやりたかったことだ。先にやられて悔しい」とか、そういう感想を抱く場合は滅多にない(少なくともこの10年間、全くない)。「何で
この人達はこういうことをやってるんだろう」という素朴な疑問のみ残る場合が多い
。キツネにつままれたような気分で殆ど全ての観劇体験は終了する。同じ日本語を話すのに言葉が通
じない奴ら−異人(マレビト)との出会いを観劇体験は私に供給する 。その極めつけが「アレ」だ。
去年我々はガーディアン・ガーデン演劇フェスティバルというのに出た。それで、
今年はどんな感じだろうと思って、6月25日の2次審査会を観に行った。そこで、
また「アレ」に出会ってしまった。そこで少し分かったのだが、どうやら「アレ」は
、某一流大学の学生の得意技らしい。
前に「アレ」を観たのは、「リアル演劇祭」というイベントにおいてだ。サルヴァ
ニラと、指輪ホテルを観に行った。サルヴァニラと、指輪ホテルの作品発表の間に休
憩時間があり、その休憩時間に「アレ」は始まった。休憩時間を伝えるナレーション
に逆らうように舞台に続々上がる役者陣。それにいちいちつっこむナレーション!壊
れたロボットのように会話のかみ合わないままセリフを吐き出す役者の皆さん!どう
表現したらいいのか分からない、のるにのれないリズム感が発生!そのリズムに乗せ
て、歌う!歌うよ、パフィー!そして与作!凍る!背筋が凍る!凍死寸前のカルチャ
ーショック!インパクトという点ではあれ以上の演劇体験を未だに私はしていない。
もう、他の劇団について語るのはやめようと思う。どうせ自分のやってることには
抵触しない世界の話だし、我が道を行くというスタイルを貫くことこそが男らしい生き様であって、他人のやっていることにあれこれイヤミなコメントを書き連ねるのは
潔くないことに今更気付いた。みんな一生懸命やってるんだ。それでいいじゃないか
。
でも、「J−POP大好き」内の演劇話の幕を閉じる前に「アレ」にだけは触れて
おきたかった。
18歳で東京に出てきた。それ以前は東北の寒村にいた。日が沈むと真っ暗で自転車だと田んぼにつっこみそうになるあぜ道の通
学路。ほっぺの赤い学友達・・・東京 に出てきて16年。すっかり東京になじんだ気でいた。方言も大分とれたし、すっか
り東京人になったつもりでいた。だが、そうではなかったのだ。今、あえてこう言お
う。
「いやあ、とうぎょうの芝居っておらにゃあよぐわがんねっす。とうぎょうっでどごは、おっがねえどごだあ!」
演劇の脱構築(死語)?カットアップ、リミックスの演劇バージョン?まさか!しかし、どうやら彼らはオシャレでハイセンスなことをやろうとしているらしいのだ。
思えばオシャレとかモードとかハイセンスとかスタイリッシュとかトレンディとかいうものにあえて背を向ける態度を取り始めてから長いこと経つ。私が演劇を志したのも演劇というジャンルが絶対的にオシャレにはなり得ないジャンルだからだ。絶対的にオシャレとは無縁のフィールドで世間でダサイといわれているものばかりを集めたダサイもののコラージュのような作品をつくったらどうなるか。ハイパーダサイ
ものの塊に接したとき人はどう感じるのか。もしかしたらなにがしかの開放感が生じたりするのではないか。それがゴキブリコンビナートの追求するテーマ(基本コンセ
プト)の一つだ。
だからダサイといわれている演劇の中でももっともダサイといわれているミュージ
カルという形式を採用した。しかし、最近、「ミュージカルはダサイ」という風潮を破壊する動きが現れている。高感度人間が集まるミュージカルが続々発表されている
らしいのだ。そんな風潮には断固反対!!がんばれ宮本亜門!!がんばれ浅利慶太!
!ミュージカルというジャンルをもっと完膚無きまでにダサクしろ!!
まあ、そういうわけでオシャレを演劇でやっている人間がいること自体私には信じられない。お洒落なことがやりたいんだったらCGアーティストとか、クラブDJと
かもっといけてる職業を目指さないか?そういう貧困な発想こそがダサイのだろうか
。きっとそうなのだろう。オシャレな人間はオシャレでない私には理解できないことを時々やる。たとえば、かつての渋谷系音楽。小西康陽プロデュースの夏木マリのソ
ロ。UFOのジャズ。オシャレに関心のない私にもかっこいいと感じられた。それが
オシャレであることが実感できた。ところが、渋谷系晩期の変な日本語ラップの人たち。かせきさいだあとか東京NO.1ソウルセットとかいった人たち、どうオシャレ
なのかよく分からなかった。しみったれた歌詞(ライム)内容。甘ったるいセンチメ
ンタリズム。聞いてて困惑した。
オシャレには背を向けているが、無自覚的にダサイのは本当はイヤなので、最低限の識別
力は維持しておきたい。全くオシャレに思えないものをこれがオシャレですと 出されると少し不安になる。
「アレ」は本当にオシャレなのだろうか。「アレ」への演劇界での評価が高いことからきっとそうなのだとは言える。しかし、オシャレであることを拒否した私にはものすごく寒いものに見える。寒い。その寒さといったら、和田勉やデーブ・スペクタ
ーのダジャレの比ではない。その寒さこそがオシャレなのだろうか?
かつてねじめ正一は、現代詩のポップ化を推進しようとしていた。そして、挫折し
て、「純情」小説家として再出発。見事に成功を収めたわけだが、挫折前の彼の現代
詩朗読パフォーマンスを皆さんは記憶していらっしゃるであろうか。「奥さんしとどにぬ
れて、くんずほぐれつ・・・」とか呪文のように唱えながら河原の藪をひた歩くビデオ作品を観たときのあの寂寥感にそれは近い。
あるいはクリストの「アンブレラ」に何の予備知識もなくハイキングとかしていて
偶然遭遇してしまったときに感じるであろう寒さだ。 あるいは「寒い」というのとは違うが、本物の映画マニアが、水俣病の記録映画を
公害問題がどうこうとかいうのを別にして「あそこに出ている顔の映り方がまさに映
画的だ。」とか言って誉めるときのどう反応してよいか分からない感じにも近い。
こう考えると、オシャレがどうとかいうより、あるジャンルのコアな表現にばったり出くわしてしまうと、ビックリしてしまうということなのだろう。未だに私は演劇
について何も知らないということなのだろう。だから、本当の現代演劇作品にであうと、当惑してしまう。
そういうわけで「アレ」がオシャレかどうかという問題は、小劇場演劇を支えるあ
る種の固有の感性においてのみ考えればいいことであって、アングラ衰退後の小劇場
史について全く何の造詣もない私が口を出したりする事自体彼らにとって失礼だと思
うので、もう口をつぐもう。
アレを寒いと感じるのは、演劇を観てるよりテレビを観てたり、J−POPを聴い
てたりする事が生活の中心を形成している人間としては健全な感覚だと思う。不安に
感じることはない。
っていうか、ゴキブリコンビナートを観て、「まじめに演劇をやっている人たちへ
の侮辱だ」とかいって怒る人たちがどういう演劇を「まじめな演劇」と見なすのかが
分かってほっとした。そりゃ怒るよね。
Dr.エクアドル氏、このコーナーに関するご意見、ご感想、苦情等はこちらまで。an-an@interlink.or.jp