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初めて見る『静かな演劇」(00.4.1)

 もう、今年は芝居を見ないといいながら、また見てしまった。当劇団の女優石田智子嬢が平田オリザ氏のワークショップ(演ぶゼミのやつ)に参加していたため、卒業記念発表会を見なくてはならなくなってしまったのだ。

「え?ゴキブリコンビナートに参加しつつ青年団の芝居も習ってるの?」

石田嬢のメンタリティ(=精神構造)はいったいどうなってんでしょ。と不思議に思う皆さんも多いことでしょうがかく言う私もその一人なのであります。彼女は日本一静かな芝居と日本一ノイジーな芝居(少なくともそれを目指されたもの)を好きなのだ。すると、日本中の全ての演劇が好きだと言うことになってしまうではないか。だとしたらスゴいことだが、本当にそうなのかも知れない。前に、当劇団の女優石井悦子氏が「スパイラル・ムーン」という劇団に参加すると言うのでみんなで観に行った時、みんなの感想はただ、一言「謎だ」だった。つまり、「何をやりたいのか、誰をターゲットとしてやっているのか、どういう基準で面白いとか面白くないとか言えばいいのかさっぱり分からない。そして、このような内容のモノを小劇場というマイナーなジャンルで発表する意義も不明」(まあ、観に行く芝居の99%はそうだけど)という物だったが、彼女一人、「感動しました」とか言っていた。
 もっとも、個人的には「静かな演劇」がどういうモノか非常に興味があり、一度は見に行かなくてはと、思っていたので、平田オリザ氏の演出作品が1000円で見れる稀少な機会でもあり、早速観に行ってみたのだ。で、感想は・・・
 何から何までゴキブリの逆を行っていた。まず、抽象と具象のバランスからして違う。舞台となっている研究室のロビーみたいなところに大学生やら大学院生やら学者の卵みたいな人たちが集まってくつろぎながら談話するという形式。それは生活の一部を切り取っているようで生活臭は払拭されている。真っ白なクリーンルームのようだ。(実際は真っ白ではないが、そう感じる)登場人物達は一見リラックスしているようでも背筋をまっすぐのばして明瞭に顎を引いて明瞭に喋る。静かというより、上品であり、紀子さま雅子さまの喋り方を彷佛とさせる。(少なくとも私には)。まるで皇室アルバムを観ているかのようだ。そして、コーヒーを飲む。そういえばユニークポイントもコーヒーを飲んでいた。東京タンバリンも飲んでいたらしい。ここで、すでに「静かな芝居とは大学院生がコーヒーを飲む芝居」というイメージが私の中に形成される。
 ここで大学院生というものに託されている意味を考察してみると、大学院生とは純粋なホワイトカラーだということだ。白衣着てるしね。日本の企業戦士の白襟は真のホワイトカラーではない。なぜなら、彼等の白襟は脂ぎっている。様々な利権や陰謀や心理的駆け引きの現場で様々なストレス、不安をかかえ生きる彼等の生きざまは肉体労働者の過酷さと根本的に違いはない。彼等が満員電車にゆられている光景に静かな演劇への契機はない。日本のサラリーマンは白いワイシャツを着た労務者に過ぎない。そこに展開されるのは青年団的光景ではなく、ゴキブリコンビナート的光景だ。
 ここで思い出すのは自分の大学生時代、つまり東京外語大に通っていたころの周りの人間達だ。東北の寒村からガリ勉して上京して来た自分には最後まで馴染めなかった適度に金持ちで行儀よく、海外留学経験もある真面目な人たちだ。特に女はまさにプチ紀子様プチ雅子様という感じで、全く何話していいか分からなかった。ある女性はラーメンは庶民の食う物だから絶対食わないと言い、ある女性はお茶づけを食べたことがないと言っていた。せっかく男子高から女性の多い大学に入ったのに結局女性とろくにはなしたこともないまま23才になった(つまり青春が終わった)。(その後、肉体労働者になり、現場にいる男勝りの女性とはちゃんと話せることが分かり、風俗行ったりして女性恐怖症を克服する。サイテー!)あの苦い思い出を彩るお坊っちゃんお嬢ちゃん達が出ているという感じなのだ。
 現実のどの部分を取り出すかと言うことだ。同じ景色を観ていても観ている物が違うということがある。今は花見のシーズンだ。上野公園に行くと花見客でにぎわっている。花もきれいでとても賑やかで楽しい光景が展開されていることだろう。しかし、その反面、上野公園には近隣の汚い人間達がゴミ目当てに一斉に集まって来る。浮浪者祭りだ。宴会の記念撮影を取ると盛り上がる仲間達の後ろの暗がりに背後霊のようにホームレス達がうごめいている。視野には入っているのだ。それを見なかったことにする防衛機能を働かすことで花見の楽しい空間は保たれている。しかし、私なんかは浮浪者に囲まれた宴会という間抜けな構図を逆に間抜けな絵柄として楽しんでしまう。
 日常生活はいろいろな要素で成り立っている。野田秀樹はこのようなことを言っていた気がする。
 「ふつう人と話していて、5分に一回は笑いがある筈、だから、芝居もそうならないのはおかしい」
 野田秀樹はそう思って笑いの密度の濃い演劇を作った(観たことないけど)。
 日常生活の中で、高級料理店でフランス料理を食べている時間もあれば(私にはないけど)、下痢に苦しんでる時間もある。作品を作る者は自分に重要だと思える部分を切り取ってつなぎ合わせて作品を制作する。野田秀樹にとっては笑っている時間がリアルで重要だったのだろう。平田氏にとってはロビーみたいなところで暇そうにただだらだら喋っている時間に人生の真実があると思ったのだろう。私は?下痢を垂れ流している時間?それもそうだが、あと、オナニーする時にどんな妄想を描くかとか、ニュースで悲惨な事件に触れる時の心の反応だとか、山手線の切符売り場で順番を抜かされた時に抱く軽い殺意とかが魂の現実だという認識がある。うまれてから今までに観て来た光景が違うとこんなことになってしまうのだ。
 そんなわけで、静かな演劇において展開される光景は自分にとって何の現実感も伴わないものだった。しかし、平田氏にとっては違うのだろう。これは出自と育った環境の違い−はっきり言ってしまうと階級の違いだ。階級が感性を決定する。


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