no.65 マニュアルの復権を全力で阻止しろ(02.1.1)
クリスマスにケンタッキーのやつでパーティーする家族、そしてカップルはどのくらいいるんだろ。貧しい。実に貧しいね。なんだろうね。このキリスト教徒でもないのにクリスマスパーティーを行う核家族の光景にまつわる底知れない寂寥感は。あ、誰もそんなの感じてないか。
カップルについては寂寥感というのとは少しニュアンスが違う。それをこれから書く。
それにしても、クリスマス関係のCMって11月末からやっているんだね。クリスマスで一ヶ月もテレビやら街やら盛り上がってるなんて。いつからそんなになったんだろ。多分80年代からだね。
ケンタッキーのクリスマス篇のBGMは竹内まりやのクリスマスソング。題名は知らない。夫婦そろってクリスマスが大好きなんだね。クリスマス夫婦だね(クリスマスに関連したものが夫婦の年収の大きなウェイトを占める)。
去年久しぶりに、山下達郎のすごく昔の曲「クリスマス・イブ」がヒットチャートに入ってこのコラムでも話題にした。そんで今年はラップ入りのやつだ。キックザカンクルーっての?聴いているのが井上三太のマンガに出てくるような強面
の人たちなのか、普通のヤングサラリーマンやOL(恋愛ドラマの対象層)なのか、すごい気になる。
クリスマスと言えば、ユーミンもクリスマスって感じするよね。ユーミンは恋愛の女王って言われているようだけど、私的には恋愛の女王っていうよりクリスマスの女王だ。そして、クリスマスの女王=マニュアル恋愛の女王だ(「恋人はサンタクロース」はホイチョイ制作の映画の主題歌)。だから、マニュアル恋愛の女王って方が正確だと思う。クリスマス・ソングではないが、ユーミンも今年売れたようだね。
この間TV観てたら、天野祐吉が出てきて、「彼が選ぶ今年のCFベスト」みたいなのやてた。そして、サントリーのやつとキンチョーのゴンかなんかとマガジンハウスのやつとを取り上げていた。そして、「スゴイ」とか、「斬新だ」とか言ってた。天野祐吉の頭の中は未だにサントリーとキンチョーとマガジンハウスなんだね。80年代が終わっても、90年代すら終わって、21世紀が訪れても。脳の中で時間があまり流れてないんだね。まあ、おじいさんだからしょうがないか。
そのなかでもマガジンハウスのCFコピーが印象的だった。天野祐吉と噛み合ってて。「21世紀もマニュアルは重要だ」とかなんとか。ポパイ、オリーブ、アンアンを擁するマガジンハウスの武器は昔から「マニュアル」だった。80年代、これらの雑誌には若者達のオピニオンを先導する力があったように思う。しかし、今はそれ程でもない。つうか、ポパイとか売れてないんだろうね。しかし、それにしても衝撃なのはマガジンハウスが自ら「マニュアル」と、うたい上げているところだ。はっきり明言しているところだ。自分で言うだろうか。「マニュアル文化バンザイ」って。ふつう「マニュアル」なんて批判的ニュアンスで使われる言葉だし、自分でそう思っていても、使用することは避ける言葉だと思う。マガジンハウスはヤケクソになっているのだろうか。自嘲なのだろうか。
バブルの頃、「クリスマス・イブ」が毎年当たり前のように年末ヒットチャートに入ってきた頃、ユーミンのアルバムが出れば必ず一位
になっていた頃、マニュアルの若者への強制力はもっと強かった。男達はクリスマスデートにそなえてそれなりの高級なレストランを予約しておかなくてはならなかった。素敵なディナーの後も場末のラブホテルではなく、センチュリーハイアットみたいな所に部屋を取ってなければやらせてもらえなかった。そういったマニュアルを実践できない男は「恥」の意識にとらわれることになる。そう、マニュアルの拘束力が強いということは、「恥」の力も強いことを意味する。「マニュアル文化」は「恥」の文化である。マニュアルから少しでもずれがあるとそのダサさは「恥ずかしい」と表現される。これを読んでいる若い人たち、「ださい」を「恥ずかしい」と表していた時代について聞いたことがあるだろうか。
90年代に突入すると「マニュアル」の若者への拘束力は次第に弱まっていったような気がする。何歳だからこう行動しなくては恥ずかしいとか、何回目のデートでこういう店に入るのは恥ずかしいとか、こういう店にこういう服を着ていくのは恥ずかしいとか、そういった基準がゆるんできている気がする。いいことだ。時代がおおらかになってきているということだ。もちろん今の若者達の行動にもそれなりのTPOが存在するだろう。しかし、TPOは細分化され、それらを統合する一本の強力なマニュアルが存在しなくなった。すると、他のTPOで行動する人たちへ優越感や劣等感のまなざしをむけることもない。マニュアルは多ければ多いほどいい。多ければ隙間も増えるし、マニュアル対マニュアルの優劣を論じるのも馬鹿馬鹿しくなる。
しかし、今年はマニュアルの衰退が少し減速化もしくは後退した気がする。それを示す証左がユーミンのヒットであり、ラッパーによる「クリスマス・イブ」のヒットである。
例えばパンクスはクリスマス・イブに彼女のための高級レストランの予約を取らない。ヘビメタもとらない。彼らには彼らのライフスタイルとTPOがあるだろうが、多数派的なマニュアル文化に与しようとしないだろう。あ、ビートパンクはしそうだな。あと、ファッションはコワモテのパンクスなのに実はうぶな人情派な「天才柳沢教授」に出てくるなんとか君みたいな人は結構いただろうな。だから、パンクスやらヘビメタやらのライフの実状は本当のところは分からない。でも、たとえイメージ上のことであってもパンクとかロックとかいうものに、平穏で安全なマニュアルへの異議申し立ての意志が内含されていたことは認めていいのではないだろうか。というかそう信じたい。
そして、ジブラファンに前回指摘されていたように私はJ−HIPHOPについて多くを知らない。ジブラを聴く人たちは、クリスマスに高級レストランを予約するのか?結婚指輪は給料の三ヶ月分で買うのか?ウェディングドレスに特別
な思い入れとかあったりするのか?ジブラも格好いいけど福山雅治もかっこいいと思っていたりするのか?柴門ふみのマンガで感動したりするのか?違うと思いたい。井上三太(サンタ!クリスマスだけに!・・・すいません)のマンガに出てくるワイルドな人たちは核家族サラリーマンとは違う価値観で生きててそれなりにカッコイイと思う(井上三太のスタンスはサブカルよりなのであまり好感持てないが)。ああいう人たちに近い人たち出会って欲しい。恰好だけギャングだなんて、話にならない。
そういう意味でキックザカンクルーとか、リップスライムとかのラップ入りトレンディ・ソング、ラップ入りシティ・ポップス(死語!=かつてユーミンやら山下達郎やら山本達彦やらの都会派恋愛ソングを同じニューミュージックでも中島みゆきあたりの泥臭いフォークと区別
するために使われた言葉)にはがっかりさせられるね。マニュアルの一元化を押し進めてはならない。「ラッパーも意外に純情だね」なんて言われてはならない。
マガジンハウスには悪いが、21世紀にマニュアルの出る幕なんてないのだ。そして、今初めて(?)言うがゴキブリコンビナートのテーマとは初期より一貫して「マニュアルからこぼれ落ちてくるもの」の全面
肯定だ。