Dr.エクアドルのJ-POP大好き目次へもどる。


no.67 エセ悲惨(04.1.1)

 

 みんなは正月番組いっぱい観たかな。私は10年ぶりに年末年始を寝て過ごせたよ。大工仕事(スタッフ仕事)をやらないで過ごせたよ。大道具から荷揚げ屋(揚重業)に転身したからね。でも、そんなにテレビ漬けでもなかったな。
  3日、4日の夜は「愛と青春の宝塚〜恋よりも生命よりも〜」だったね。木村佳乃のなんか違うものになっている宝塚メイク顔に釘付けになってつい全編観てしまったね。時節柄こういう反戦テーマが好まれたりとかするんだろうね。まあ、こういうどうでもいいドラマを観て過ごす正月もいいものだね。ステレオタイプ演出の嵐に思わずニヤニヤしてしまう「勉強になるドラマ」だ。米倉涼子が最初、ボーボワールがどうたらとか言ってるのに、恋愛にはまる(相手はユースケ・サンタマリア)と、「そんなのもうどうでもいいわ」とか言ってて「反戦は主張するくせに、フェニミズムはNGかい!」と、一瞬つっこみたくなるが、脚本家の大石静(元青年座、二兎社)はどういう気分でこれを書いたのか知らんが、その辺のさじ加減も庶民にとっての民主主義とはどの程度のものかを象徴していて興味深い。もちろん私はフェミニズムも反戦運動もどちらも応援する立場ではない。
 作品後半部はラブ・ロマンスのオン・パレードでいちいち戦争がラブを引き裂く。引き裂いた後に恋の炎をより燃え立たせる(書いてて赤面 中)。「こんな戦争イヤ!愛する人と結ばれたい!」その辺が泣きどころなんだろうけど。愛を引き裂かれ戦争の理不尽さを嘆く人々の図。こういうのってよくあるけど本当はリアルじゃないよな。当時の庶民はもっと芯から軍国主義に洗脳された筈で、その上で軍国主義と対立する恋愛感情もあったりして、その辺をリアルに描くともっと微妙な葛藤を描くことになるが、そうなるともう「お正月用のテレビドラマ」としては成立しなくなる。だから「戦争時代にタイムスリップした現代のカップル」の様相をしめしているけど、あれはあれでいいんだろうな。っていうか、みんなそんなのわかって観てる。

 テレビドラマは当然それでいいんだけど、劇場用映画はそれでいいんだろうか?

  エグイシーン満載だという噂を聞いて映画「楢山節考」を観た。左とん平演じる臭い乞食みたいな子供(寒村の中にも差別 が!)。犬相手の獣姦。姥捨て。村の掟を破った者への容赦のないリンチ(生き埋め)。老婆による歯折り(しかも姥捨てを自ら早めるために!)。旦那の遺言で無償で乞食(?)達に体を提供しまくる倍賞美津子のヌード。あき竹城のヌード等、見どころ満載ではあるのだけれど・・・どうも物語に説得力に欠ける気がしてはまらない。土着的な因習に生きる泥臭い人々の生活という好きなテーマだけに残念だ。
 理由は、民主主義の強力な擁護者である今村昌平が(あるいは原作者の深沢七郎が)、寒村の生活の悲惨さを訴えようとして、「理不尽な因習に困惑し、呻吟し、あげく哀しく諦観する民の図」を描いてしまったことによる。もちろん姥捨てが本当にあったとしたら、そこには別 離の悲しみもあっただろうし、恋人が掟をやぶった親と一緒に生き埋めにされたら、激しい怒りにかられることもあるだろう。当時の村人なりのいろんな悩みや葛藤やドラマがあるだろう。しかし、それにしてもタイムスリップした現代人のように「こんな理不尽な生活、おかしいよ。もっと近代的な生活がいいにきまってる」という心の叫びを上げすぎる!いや、もちろんそんなセリフ一言もないのだが、描写 の質感に作家のそういう気持ちが塗り込められすぎて、「可哀想な暮らしだなあ」という現代人(映画の客)の視点が緒方拳はじめ登場人物の心理に潜り込んでしまっている。
 もっと現代人にはわからない価値観で生きている人たちの強烈なバイタリティみたいな部分を見せて「人間は結構過酷な環境でもそれなりに強く生きてきたし、歴史ってそういうものなのだなあ」みたいな形に出来なかったのか。っていうかあの映画がそういうつもりでつくられたのだとしたら明らかに失敗作だ。「昔の暮らしってイヤだろ?民主主義バンザイ都市化バンザイ文明バンザイ」みたいなメッセージしか伝わってこない。
 なんか現代の我々と違う価値観(掟)に従って生きる人間をいかにも辛そうに描いて、また、当時の価値観に何の疑いもなく染まって生きてる脇役(悪役)側の人間を間違った価値観に洗脳されたロボットみたいに描くドラマってやだな。いや、正月テレビドラマだったら別 にいいんだけど。
 でも、例えば「カムイ伝」なんかは当時の社会を不合理とする作者のメッセージがやたら出てくるんだけど、物語にはそれなりの説得力があった。この違いは何だろう。

  この期待はずれ感は、この映画を観る前に観たのが「阿賀に生きる」だったのが原因かも知れない。それでは、「阿賀に生きる」の話をしよう。
 この映画は水俣病被認定患者の生活を追ったドキュメンタリー映画だ。しかし、作り手の手法はある意味「巧妙」だ。悲惨一辺倒じゃない。水俣病の影響で手先は震え、伸ばせなくなり、障害者化していく。しかし、生活には笑いがあり、馬鹿馬鹿しい冗談を言い合う楽しい語らいがあり、抗議運動の集会には楽しい記念撮影がある。水俣病は阿賀野川流域に暮らす人々に絶望的な闇をもたらすが、人々は精一杯今ある生活をエンジョイしている。抗議行動にはもちろん真剣に打ち込むが、いつもしかめっ面 で嘆き暮らしているわけではない。生きるとはそういうことではないだろうか。
 だからこそ、水俣病問題の切実さもに観ているものにより伝わるというものだ。こうしてこの映画は水俣病問題に特別 な関心を寄せ、運動を志す人にもそうでない私のような人々にも同時に何か感動的な物を伝えることに成功している。
 ところで、この映画は本当は私なんかが観ていい映画ではないようだ。この映画とか同じ水俣病ドキュメンタリー映画「無辜の海」はアテネフランセ文化センターとかで映画を観るようなコアな映画ファンに評判がいい。彼らがどのようなポイントでこの映画を誉めるのか、私には一生理解できないであろう。彼らは私の知らない言語で話す人たちだ。こんな評じゃその辺の人たちに鼻先で笑われそうだね。でも、楽しんだのだからいいだろ?

 さて、戦争といえば「戦争論」。「戦争論」は読んでないんだけど、「戦争論妄想論」は読んだよ。小林よしのりの「戦争論」の影響力にどう立ち向かうかをテレクラの宮台やら戦争で片腕がもげた水木しげるやら何故か美術史の権威若桑みどりやらいろいろな立場の人が論じた変な本だ。買ってから「戦争論」や「自由主義史観」(南京大虐殺はなかったとか従軍慰安婦は悲惨じゃなかったとか日本は敗戦の補償を完遂しているのだからこれ以上あやまる必要はないとか主張する立場)に関しての批判本だと気付いたんだけど、「戦争論」をあらかじめ読んでなくても内容は楽しめた。だが、一番ダメだったのは石坂啓のマンガ「ある日あの記憶を殺しに」だ。このマンガの内容を紹介すると・・・


 若い日本人旅行者が韓国に旅行していて、日本大使館の前で抗議自殺を図ろうとしているおばあちゃんに出会う。思わず声をかけてしまって一緒に食事。そこでおばあちゃんの身の上話を聞く。おばあちゃんは元従軍慰安婦でそれはそれは悲惨で屈辱的な目にあわされたということだ。だから、戦争が終わっても心の傷は癒えることなく、生きることに希望を見いだすこともなく、抜け殻のように生きてるらしい。

「私の中にはもうずーっと星がない ずーっとまっくらです
 私はずーっと生きてもいない 死んでもいない
 (料理を前にして)どうして食べるんでしょうね これ・・・」

 そんな気分のまま終戦後の何十年も生き続け、ついに抗議自殺を試みたというのだ。
 気が滅入るようなマンガであり、普通に読めば正義の漫画家石坂啓の目論見通り、「ああ、戦争って悲惨なんだな。従軍慰安婦ってひどいもんだったんだな。2度とこんな過ちを犯してはならないんだな」という気分になるだろう。だが、どうにも引っかかる。私には。
 そのおばあちゃんは戦争中あまりに悲惨な目にあったため、終戦後笑うことも何か生き甲斐を見いだすことも楽しいと思うことも全くなく何十年も生きてきたらしいのだが、そんなこと本当に可能なのだろうか。しかも、狂うわけでもなく鬱病になるわけでもなくノイローゼになるわけでもなく廃人になるわけでもなく。絶望と死だけを思い続けて体だけは健康で何十年もいきられるものなのだろうか。そして、従軍慰安婦体験者はすべからくそうだと言うのだろうか。どうもその辺で説得力の最後のツメを欠いているような気がする。といっても私自身がそういう体験をしたことがないのでこんな事実はあり得ないと主張できるものでもない。っていうか、このマンガも事実を元にしているのであるのだろう、そういう事実が。
 でも、水俣病で体がボロボロになって国から認定もされず止むに止まれず訴訟を起こし必死に戦っているはずなのに集会の記念撮影は誰もしかめっ面 などしてなくて何故か楽しそうだったりする人間の描き方の方が現実感をもって私には迫ってくる。どんな無茶な状況を経ても深い傷を受けても人間は感情の起伏をある程度とりもどす気がする(本気で狂った場合は別 )。モノクロームの世界から抜け出す気がする。そういうしたたかさも人間の業の一つのような気がする。
 そんなわけで事実事実といいながら、石坂啓のイデオロギーマンガはうさんくささを拭いきれない。だからといって小林よしのり派に与するものでもないけど。
 私は平和ボケなのか?いや、そういう問題ではないと思う。


Dr.エクアドルのJ-POP大好き目次へもどる。