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no.74 追悼2(02.7.17

 追悼ネタは一回きりにしようとも思ったが、室田日出男とか、好きだった人がよく死ぬ ので(伊藤なんとかという人はよく知らない)、もう一つ書いてみることにする。遊機械全自動シアターという劇団の死について(え?人じゃねえだろって?)。
 遊機械全自動シアターが自分にとって何かの代名詞の機能を果たしているようで、よく文中に名前を出すような気がする。この劇団は東京に出てきて5本目ぐらいにみた小劇場だった。タイニイアリスで観た。当時第何世代なのかは知らないが、自転車キンクリートと並んで新進気鋭の劇団だったろうと思う。
 当時まだ、小劇場ブームが終わっていなくて、東京に出てきたからには芝居でも観てやろうという気持ちが大きかったが、一本目に観た劇団が東京グランギニョル(=パンク+耽美、客層は今で言うゴスロリ)であり、その次が千賀ゆう子+錬肉工房(=抽象芸術、セリフは吉岡実みたいな現代詩)、その次が芝居ではないが、田中泯(現代音楽風電子音ノイズをバックに1時間かけて寝ている人が起きあがり、もう1時間かけて2〜3歩歩き、それで終わってしまう超ストイック抽象芸術)、その次が白桃房(これも田中泯に負けずとも劣らない超ストイック抽象芸術、この田中泯と白桃房により「暗黒舞踏は派手なスペクタクル禁止」という先入観を植えつけられる・・大駱駝艦に出会うまでその先入観は続く)だった。
 ということではじめからアングラばかり観てしまっていた。しかし、当時すでに野田秀樹らによってアングラの死が宣言されており、ブームの中心は別 なところにあった。そこで、当時イケてるとされる小劇場も一度は観てみようということで遊機械全自動シアターの公演「学習図鑑」に足を運んだのだ。そして、それが「アングラは確かに終わったのかも知れない。でも、ブームの小劇場よりはまし。ということを強烈に印象づけ、遊眠社、第三舞台以降のネアカ演劇全面 否定への道をたどる契機となった。それ以降、この遊機械全自動シアターという劇団名が自分にとって嫌悪すべき「ザ・小劇場」の代名詞として、意味を持っていくことになる。以下自分にとって記念すべき演劇鑑賞となったこの16年前ぐらい昔の作品のレビューを行う。

 まず、鼻筋通った顔でなぜかアフロヘアのおばちゃん(=高泉淳子。当時まだ28才ぐらいだったろうが、19才の自分には十分おばちゃんに見えた)がランドセルをしょって登場する。山田のぼるという男子小学生の役で。なぜにアフロヘア?なぜにおばちゃんなのに男子小学生?その出で立ちのあり得なさ加減が強烈に痛々しくて胸を揺さぶる。ある意味グロテスクですらあり、前に観たグランギニョルの心臓膨張シーンや死体売買シーンを凌駕する。
 ランドセルにはなぜかディバインのシールが貼ってあり、犬のウンコを食うとはいわないまでも、何かディバインやウォーターズへのオマージュが感じられるような毒でブラックなシーンの一つでもあるのかと思ったが、全くそれはなく、むしろ、あからさまではないがどことなくハートウォーミングなタッチで芝居は展開していく。ではなぜ、ディバイン?そう、特に必然性はないのだ。
 ストーリーは気持ち悪い男子小学生山田のぼるくんが学校でウサギを殺して先生に怒られたり、ブス(=篠崎はるく)に言い寄られたりして進む。小学生達のそれぞれに複雑な家庭環境があり、それだけ聞くと少しは面 白くなりそうな題材だが、ブスはブス、不幸は不幸、気持ち悪いは気持ち悪いという突き放す冷たさが演出に感じられず、むしろ透明なやさしさみたいなのが全編にただよっていて具合が悪くなる。その見当はずれのやさしさこそがグロテスクで高泉淳子や篠崎はるくのブス顔以上にグロテスクで、好きなグロではなくなる。
 ギャグが連発され、会場は爆笑に次ぐ爆笑なのだが、そのギャグのことごとくが寒く、当時はやっていたとんねるずどころか鶴太郎程の冴えもない。夕ニャンやスーパージョッキーでも観てたほうがマシだと思い、この笑っている客どもがふだんどんなテレビを見ているのだろうと不安になる。
 途中で、笑っている客は心から笑っているのではなく、ギャグと笑いのキャッチボールというリアルタイムな舞台−客席のコミュニケーションに癒しを見いだしているのではないかという疑念が芽生え始める。殺伐として世知辛い実生活に疲れた人たちの癒され笑いなのではないか?高度消費社会、スピード社会に乗り遅れた人たちがお互いを慰撫しあう場がここに形成されているのではないか?どうしてもそういう風にしかここで起こっている笑いを解釈できず、いたたまれなくなる。なぜなら、自分はそんな場所にいたくないから。
 しかも、そんな形で慰撫し合うような人たちが、「アングラの毒や客を引き離すような演出は時代遅れだ」と言っているのだ。本当にそういう人たちの方がイケているのだろうか?エンゲキの世界の中では通 用しても、文化全般の流れと全く対応していないのではないか?エンゲキの世界でイケてるとされている人やものが、世間一般 では乗り遅れた人たちとして認識され始めている断絶感をここで感じる。この断絶はいまでも存在する。

 以上公演内容のレポートと感想である。その当時、遊機械全自動シアターのあと自転車キンクリートも観る予定であったがその手のものはこれ以上観る必要なしと判断し、観るのをやめた。ザ・小劇場からの決別 であった。そして、今に至る。
 他の劇団の人と知り合って「何かコイツとはノリが合わないな」と思うと遊機械全自動シアターについてどう思うか聞くことにしている。大体ノリが合わないヤツは「好き」と答える。最近主流のエチュード中心で芝居を作っている連中はみんな普段から合コンのお調子者みたいなキャラをしており、そういう奴らはみんなそう答える。便利な代名詞だったのに、解散とは残念だ。
 「アングラは古い!これからはダークサイドへの言及のない明るく軽い演劇の時代だ」と意気込んでやっていた小劇場ブームの人たちも年齢的に中年になり、そしてその代表格の一つ、遊機械全自動シアターも寿命を迎えてしまった。これからはどうなるのだろう。もっとも麿赤児氏が鴻上尚史演出の芝居に出たり、クロスオーバーの時代に突入しているようだ。確かにカウンターカルチャーはもはや死語、その上カウンターへのカウンターも意味もなくなって元アングラも元ネアカも元新劇もそれからジャニタレも手と手を取り合ってニコニコ仲良くやっていく時代なのだろう。
 だが、あえてそんな時代だからこそ、断絶を、亀裂を生じさせたいとも思う。平和と連帯のムードに包まれゆく小劇場界の流れにただひとり拮抗していたいと思う。そういう立場に立つ劇団も一つぐらいは必要なのではないでしょうか?
 というわけで遊機械全自動シアター様、ご冥福をお祈りします。
 また、新しい代名詞を見つけなきゃ。


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