Dr.エクアドルのJ-POP大好き目次へもどる。


no.77 負けた! (02.10.27

 他人の芝居を観て、「負けた」と思うことなど滅多にない。それは、私が比類なき才能の持ち主だからなんてことではなく、そもそも向いている方向が違うから。競争相手が存在しないのに「負けた」などと思うはずもない。
 ところが、昨日久しぶりに「負けた!」と思った。何を観たのかというと、劇団四季を初めて観たのだ。演目はもちろん「ライオンキング」。本当なら、「デスミュージカル死期」(00年、法政)をやる際、参考がてら観ておこうという気持ちがあったが、「メジャーな公演は開演時間直前に会場に赴いてもチケットはとれない」という体験をしてしまい、それから観よう観ようと思いながらなかなか行く機会に恵まれず、「このままライオンキングも終わってしまうのか?」と思っていたところでついに観れたのである。 よかった。
 貧乏なので、安いバルコニー席というのを購入し、プロセニアム上部よりも高い位 置から見下ろす形となってしまい、「出演者の頭頂部しか観れないのではないか?迫力が十分伝わってこないのではないか?」みたいな心配が観る前は、あったが、実際始まると、冒頭からドギモ抜かれっぱなしだ。
 公演会場は劇団の持ち小屋であり、演目の専用会場である。まず、その利点を生かした凄さがある。これは、小劇場でも出来ないし、大手の公演でも、貸し小屋では出来ない。自らの劇場を持つ劇団だけに可能な舞台機構の最大利用。演目に沿って舞台機構も作り替えてしまうのだろう。それはとても贅沢なことだ。それに加えて、ワンエピソード毎に人員と物量 を投入しまくり、これでもか、これでもかと盛り上げる。着ぐるみ装置(着ぐるみと装置の境がここでは限りなく曖昧化されている)の量 だけでも大変なものだ。出はけや収納の処理をどうしてるのかよけいな心配してしまうほどだが、演劇の基本(他の演劇人にとっての基本などどうでもよく、自分が演劇という場に何を期待して身を置いているのかという原点)に気づかされた。いろんな意味で目から鱗が落ちたが、観る前からきっとそうなるだろうと予想していたことでもある。予想してそうなるのなら「目から鱗が落ちる」とか「気づかされた」とか言わないだろうと、あなたは言うかもしれない。予想していたのならビックリしないはずだとあなたは言うかもしれない。しかし、やはり、目から鱗が落ちたとしか言いようがない。やはり観に行ってよかった。
 アングラから入ったので、ほとんど今まで小劇場しか観てこなかったが、もはや小劇場から学ぶものはないと思っている。(私が好きなタイプの)アングラはほぼ完全に廃れたし、アングラ以降の人たちのやっていることはよく分からないし(分かりたくもない)。新劇は観たことないが、おそらく私が観て参考になったり刺激になったりするようなものはないだろうと予想される。落ち目アイドルやドラマタレントが客寄せ看板になっているような、商業系の演劇は問題外だろう。何気ない仕草や微妙なセリフの行間に豊かな含蓄を込めることこそが演劇の醍醐味だという考え方もあろう。だが、私はそういう集中力をあえて自分にけしかけることによってのみ豊かな鑑賞が可能になる演劇、禁欲的な鍛錬を作り手側のみならず受け手の側にも強いる芸術には全く興味がない。遊園地のアトラクションのような、祝祭のような、その場に身を任せるだけで自然と興奮状態になれるようなものが観たいし、作りたいと思っている。そんな自分にとって今回の観劇は非常に重要なものだったといえるだろう。
 こんな親近感の表明を我々風情がしているなんて向こうが知ったらおそらく不快だろうが、実際は私の発言などあちらには届かないし、届いてもゴキブリコンビナートが何なのかなど向こうの知ったことではないので、こっちは何とでも言える。だから言ってみよう。演目専用の小屋を建て、外からの役者とか使わず、ある意味全くインディペンダントにやっている彼らには非常に共感できる。そして、それが認められ、興行として成立しているのは大変うらやましい。
 ところで、シリアスな泣きのシーンで(着ぐるみの)目から模した細い布をびろーんと引っ張り出して涙を表現するのは、あれはないだろうと思います。マンガじゃないんだから。誰も笑ってなかったのがとっても不思議でした。



Dr.エクアドルのJ-POP大好き目次へもどる。