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no.85 全国の斎藤よ、立ち上がれ (03.8.31

 私、Dr.エクアドルの本名は斎藤である。非常に多い名字で、少ない名字も人に覚えてもらえないみたいな不便があると思うが、多い名字も不便が多い。仕事柄毎日いろんな違う現場に行く。そこでよくおなじ名字の人間が違う立場で働いていて、知らない人が知らない人を、場合によっては知ってる人が知ってる人を「おい、コラ、サイトウ!」「サイトウ君」「サイトウさん」と呼び合って仕事をしていて、いちいち「え?」と思ったり、ビクッとしたり、あたりを見回したり、非常に紛らわしく、やりにくい。
 「佐藤」や「鈴木」はもっと多いから大変だろうね。「サイトウ」は10位らしい。日本で。とくに私の故郷では多くて、中学、高校とクラスに必ずもう1人いたが、高校一年の時など45人クラスで5人ってことがあった。クラスの一割がサイトウだ。しかも、その高校では五十音順が出席番号でそれがそのまま席順なので、前を向いても後ろを向いてもサイトウ、自分もサイトウ、「じゃ、次のとこサイトウ、読んで」をオウムのように繰り返す先生。一体どれが自分なのか?まさにアイデンティティ・クライシスだったよ(それは嘘)。
 この「斎藤10位」は、子供の頃そうで、今もそうなんで、不動の10位って感じだが、ほんとうにそうなんだろうか?本当は違うんじゃないだろうか?と、いうのは「斉藤」と「斎藤」を合計しているんじゃないかという疑いがあるのだ。
 よく、人に名前書かれると「斉藤」と書かれる。私の郵便受けに届く郵便物も半分は「斉藤」と書かれている。まあ、「斎」は画数が多い時だし、省きたくなる気持ちも分かる。同じ字なら簡単な方を書きたい。でも、言っておく、同じ字じゃないんだよ。あと、これが重要なことだが、「斎」は「斉」の旧字体じゃないんだよ。
 複雑な事情がある。実は戸籍上の漢字で言うと、私の名字は「齋藤」である。これは私も書かない。旧字体だからだ。滅んだ字だ。まあ、旧字体を滅んだ字扱いすると異論のある「美しい日本語」論者もいるだろうが、ここでは相手にしないことにする。なぜなら、もし自ら戸籍どおり「齋藤」と書き、人にもそれを強制するのなら、「国王」は「國王」と書かなくてはならないし、「数学」は「數學」と書かなくてはならないし、「櫻が咲いた」と書かなければいけないし、「一萬圓」と書かなくてはいけない。正しいのかも知れないが、それはいやだ。めんどくさいから。というわけでここでは一応文部省と日本語教育の現状と慣習と常識は正しいという前提で話を進めていく。というわけで「齋藤」など読めなくても書けなくてもいいんだ。
 だが、「斎」は旧字体ではない。しかも、常用漢字である。かつては当用漢字である。っていうか、中学校で習う漢字である。「誘拐」の「拐」はそうではないので、新聞では「誘かい」って書いてある。「拉致」は「ら致」。変だけど、実際書けない人多いんじゃないかな?私も勿論書けない。 しかし、「斎」は違う。実際「書斎」ってみんな書けると思う。同様に「斉」も書けると思う。「一斉」の「斉」だね。だから、多くの人は「誘拐」は書けなくても「斎」と「斉」の違いは知ってるわけだ。書き分けているわけだ。では、何故「斉」にしてしまう?
  理由は大体分かる。「斎」「斉」は意味がよく分からないからだ。しかも、「一斉」「斉唱」の「斉」より「書斎」の「斎」の方が分からない。「斉」は「均一で揃った感じ」というイメージがある。実際漢和辞典で訓読みを引くと、「そろう」「ひとしい」とある。意味は身近だ。では「斎」は?漢和辞典で訓読みを引くと「ものいみ」と書いてある。何?「ものいみ」って?日常生活で殆ど使わない言葉だ。意味は「神仏を祭るとき、飲食や行為をつつしんで、からだを清くたもつこと」とある。これを読んでいる方、そんなことやったことある人いますか?おまけに熟語の欄をみると、「斎日」(=精進日)「斎主」(=祭祀を司る人々のかしら)「斎供」(=斎飯ときのめしを供すること)「斎潔」(慎んで身を清める)・・・意味わかんねえ。使わねえ!

 みんなが画数が多くて意味不明な「斎」をついつい避けてしまう理由が分かるってもんだ。

 ロリータ男爵のサイトウマリさんが我が劇団に客演したとき、同じ悩みが分かち合えるかと思って、尋ねてみた。すると、何と、サイトウマリさんの「サイトウ」は、「斉藤」だというではないか!その時知ったのだ。全てが「斉藤」と略されているわけではない。はじめから「斉藤」の人もいるのだ。その人達の存在のせいで「斎藤」も「斉藤」と勝手に略され、かくして「サイトウ」は日本で10番目に多い名字となってしまっているのだ。
 こういうことを言うと、例えば「『沢田』と勝手に略される『澤田』」や「『渡辺』と勝手に書かれる『渡邊』」と同じ悩みだと勘違いされやすいが、今まで述べたように全く違うのである。旧字体を主張する人はそれはそれでいいんだけど、人に強制するのなら、実践して欲しい。普段から図画工作ではなく、圖畫工作と書くべきだ。 「斎藤」の問題と全く違う。
 では、どういう風な問題と一緒なのかというと、「伊東」と「伊藤」、「竹田」と「武田」、「菅野」と「管野」ぐらいの違いだ。この辺の人たちも間違って書かれることは多いだろう。だが、我々ほどではない。
 そこで提案なのだが、「斉藤」は今後、「セイトウ」と読むことにして欲しい。こうすれば、現場やクラスで紛らわしい思いをすることも減るだろう。「斉」には「サイ」という読み方もあるが、ポピュラーでなく、殆ど使用しない。学校でも習わない。「斉」を「サイ」と読ます熟語は「斉列」(=そろい並ぶ)「斉明」(=正しく明らかなこと)など、殆ど使わない。「斉」は「セイ」だ。

 そんなわけで全国の「斎藤」よ、立ち上がれ!「斉藤」は「セイトウ」運動を展開しよう。日常も不便なことが減るし、名前を違う漢字で書かれることもない。「サイトウ」の読みは俺達のモノだ!!

 ちょっと勝手かな・・・
 

 
 


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