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no.89 蹴りたい蛇 (03.3.5

 「J文学」と言う言葉はどうやら「Jポップ」より先に死語と化したようであまり耳にすることもなくなった。いいことだと思う。このコーナーで最後に文学を取りあげたのはいつのことだっけ?そうそう篠原一の「壊音−kaion−」をとりあげたんだっけな。現役高校生が書いたってことで当時話題になっていた。感想はといえばたしか

「難しくて全く理解できないが、おそらく作者はものすごくセンスが悪い」

 頭の良さとセンスの良さが完璧に乖離した興味深い事例であった。まあ、私はどちらかというとセンス悪の方の味方なんだが、下らなかったりバカだったりしてないし、自覚もないので、これに関しては味方をする気になれなかった。

 さて、現役女子高校生とまではいかないが、20前後の「女の子」が芥川賞を受賞するという事件が起こって話題になっている。しかも2人も。一つは綿矢りさ「蹴りたい背中」。もう一つは金原ひとみ「蛇にピアス」。はっきり言えることは2人とも篠原一よりははるかにルックスがまっとうだと言うこと。あ、やめよう。文豪さんに対して顔のことを云々するのはフェアじゃない!
 「小娘のメンタリティ」という言葉を流行語にしようと目論んでるDr.エクアドルである(ウソ)が、この人達の場合はどうなんだろう。ちなみに私が興味惹かれる小娘像とは、街に溢れるバカども(古くはコギャル、そしてヤマンバ、ガングロ、最近では汚ギャル)である。消費の実権を握っているマジョリティであり、企業もその嗜好の変化を気にかけてリサーチを欠かせないところのものである。「バカども」と書いてしまったが 、それは「良識ある世間」の評価であり、私は本当はちっともバカだと思っていない。彼女たちはリアルな生き様を示している。本当に愚かなのはそういったリアルなマジョリティのあり方に何らかのスタンスを決め込んで根拠なき自尊心を守ろうとする人たちである。個性を演出して自分を褒め続けないと精神が崩壊するかわいそうな人たち。でも、本当に誰もしてないことをし続け、孤独を引き受ける覚悟はないので適度にマイナーな共同体を作ってそこでお互い認め会ってユルく過ごしている。そんな人たちのやることなすことが面 白かった試しがなく、「小娘のメンタリティに興味ねえんだよ」と言うときはもちろんこちらを指す。まあ、文学という歴史と伝統を背負い、日本のトップレベルの教養と知能が集まっている場では小劇場みたいにそんな不思議ちゃんの出る幕など断じてないはずだが。

 では、どういうタイプの小娘が芥川賞に選ばれたというのであろう。ついにギャル文学、ギャル作家が誕生してしまったのか 気になり始めたので文学を読むには全く向かないドカタ脳の持ち主の私が2作に挑戦しようと思い立った。

 まず、綿矢りさ「蹴りたい背中」であるが、純文学とは到底思えないポップなタイトルに驚く。「背中」とは当然男の背中で、蹴るのは女だろう。で、二人は兄弟、親子、上司と部下などではなく、当然交際中のカップル。背中を向けた男に女が「ンモゥーッ!」とか「イーだ」とか言ってる光景が真っ先に目に浮かぶ。男による「こいつう」攻撃(=人差し指を額に押し当てる攻撃)と同等にほほえましいカップルのお戯れのワンシーンを切り取ったような光景。まるで10年前のトレンディドラマのようなタイトルだ。主演は陣内か?ギバちゃんか?って感じだ。
 およそ純文学のタイトルとしては似つかわしくないように思える。では、純文学に似つかわしいタイトルとは?「万延元年のフットボール」とか「パルタイ」とか「丘に向かって人は並ぶ」とかそういうのじゃなきゃ。
 実際読んでみるとポップな題名だけあってかなり平易。平易って言っても勿論作者の意図がくみ取れるとか批評できるとかそんなレベルではなく(純文学に対してそんなコトできない)、まず、ストーリーが分かる。そして、辞書を引かないと分からない言葉に出合わない。「壊音」なんかは時間がどっちに進んでいるのか?昼なのか?夜なのか?今行動が説明されている人は主人公にとってどんな関係の人なのか?それすらも読んでて分からなくなった。そもそも「壊音」って言葉自体元々あった言葉なのかどうかも分からないし。「蹴りたい背中」は、そういう問題は発生しなかった。でも、やはり、テーマとかそういのは分からない。
 主人公の女子高生は、作品の中盤ぐらいで早くも背中が蹴りたくなり、実際蹴ってしまう(ラストでもう一回蹴る)のだが、まず、何で蹴りたいのかちっとも分からない。とりあえず、先に述べたタイトルから受ける印象の状態ではないようだが、では、蹴りたい背中の男は主人公にとって彼氏ではなくて何なのか?彼女はその男をどう思ってるのか?実は延々それが説明されているのだが、結局分からない。
 ストーリーを一言で言うと、

別に好きでもないアイドルオタクと一緒にそのアイドルのコンサートに行く

 というもの。 これだけ聞くと面白くなさそうだが、実際読んでもあまり面 白くない。主人公はクラスで何となく浮いていて、自分より輪をかけて浮いているネクラのアイドルオタクの存在が気になるようだ。でも、別 に好意を寄せている風でもない。でも、家に泊まりに行ったりしてるから、憎からず思っている感じではある。で、コイツそのうちいじめに会うなとか思っている。思ってる女の方も他人事ではないように思えるのだが・・・で、そのアイドルをめぐってなんとなく話題の接点が二人の間に生じて、男が密かに作っていたアイコラ写 真を見つけだしたり、彼が楽屋の出待ちでストーカーよろしくタレントに突進していくのを目撃したりする。その度に、いろいろ気持ちの吐露が書かれているのだが、「ああ、こういう感じってあるよね」と実感させる部分が何もない。その辺が純文学なのか?
 
とにかく、期待したギャル文学の誕生ではないようだ。ギャルどころか、主人公のキャラは全くその正反対。ギャルの素晴らしいところは内面 がないところだが、この小説世界は内面だらけ(純文学だからしょうがないか)。内面 なんて糞食らえ!という立場の私は読んでてホントイライラするよ。クラスの輪に入っていけず、といって回りに変に思われるのもイヤで、毎日昼飯をどこで食べるかウジウジと思案にくれる。回りの人間との距離の取り方にいつも神経をとがらせている。こういうタイプの人間は一見弱気そうに見えて、実は自尊心が人一倍高く、他人に対してものすごく不寛容だったりするよなあ。あげくに「クラスの人たちってレベル低いよね」発言。こういうやつこそいじめられるよなあ。いじめられても高飛車なリアクションを崩さないので、ますますいじめが激しくなる。そんないじめの悪循環を呼び寄せるタイプに思えるんだよ、この主人公は。自殺した漫画家山田花子がいじめられ漫画家であり、大槻ケンヂがいじめられミュージシャンと呼ばれるがごとく、こいつはいじめられ小説家と呼ばれるべきものなのではないか?山田花子マンガから暴力や屈辱や絶望やらユーモアやらその他わかりやすいインパクトを除去して無味乾燥化させたものがこれなのかもしれない。
 ところで、戦後文学は過剰自意識の問題を扱い続けてきたと現国で習ったような記憶があるが、文学が問題とし続けた自意識の問題とはこんな次元(不思議ちゃんの自尊心)の問題ではないはずだ。
 でも、文学の世界でこの小説世界はきちんと評価されているのだから、そういう表面 的な部分以外に奥深い何かがあるはずだ。そうでなければこんな小説絶対認めてはならない。こんな小説を書く人をプロにしてはならない。だが、私には読みとれない。ドカタ脳では読みとれない。
 行間に、何気ない語彙の選択に私の想像もつかないお宝がざくざくと埋まっているのだろう。文学好きは気付いても、私には気付けず、この小説は私にとって不愉快なイヤ味の垂れ流しに過ぎないのだった。

 さて、次に金原ひとみ「蛇にピアス」である。
 一昨年、ゴキブリコンビナートのメンバーは、見世物興行団体入方興行名義で「サディスティック・サーカス」なるイベントに参加した。観に来た人たちは我々のやってることを観てどう思っただろうか?ちょっと痛そうなことをやってもニュアンスとしては単に下らないだけで、モード感、ステイタス感のかけらもない美しくもない我々のパフォーマンスを心から応援、歓迎した人はいなかったのではないか?逆に私の方でもこう思ったよ。

こんなイベントに足を運ぶような人種とは一生おともだちになることはないな。

 この小説に登場するのもそんなサディスティック・サーカスみたいなイベントで見るような人たちだ。そしてきっと作者も。
 モードを気取ることに一生懸命な人たち、しのぎを削ってセンスを磨くような人たち、私とは完全に無縁な人たち。でも、実はこういう身体改造ネタに関しては他のモード的なものよりも興味惹かれる。そして、結論から言えばこの小説は決して退屈な作品ではなかった。
 モード系は全てダメと言わずにどうしてそういう差別が生じるのか?それは、モードな人たちは基本的にいつも余裕しゃくしゃくで、自分の手を汚さず、リスクを背負わない生き方を選択する人たちであり、それがイヤな点であるのに、こういう人たちは物理的な痛み、リスクに挑んでいるからだ。チンポに塩水を注射するのは実際怖いし。入れ墨は取り返しつかないし。
 読み始めた当初は、ピアスのゲージがいくつだとか、そういう蘊蓄っぽい会話やら説明が多いので、田中康夫のモダン・プリミティブ版とも言うべきカタログ小説、しかも本当にその世界にいる人たちにはとっくに周知の初歩的なことを文学とか読んでる「遅い人たち」に紹介するアングラな若者文化とお上品で枯れた書斎の文化との橋渡し的な役割の作品を意図してるのかな?と思っていたが、後半に行くとファッションセンスを競っているという言い方ではすまされない形で暴力の生々しさが増してくる。それでも問題にされているのはあくまでファッションであり、モードなのだとは思うが、お互いの命を危険にさらしてまでスタイルを追求する姿勢はそれはそれで感動的な生き様だと思えてくる。終盤の「彼氏の死因をめぐるどんでん返し」はそれなりに効いた。そして、エキサイティングに思えた。芥川賞にもかかわらず、カタログ小説にもかかわらず、ちゃんとエンターテイメントを成立させているのだからたいしたものだ。
 
文学に身体改造ブームを導入したという組み合わせの真新しさで勝負しているのだろう、それでは何も創造したことにならないな、とタカをくくって読み始めたが、なかなかどうしてである。
 でも、身体改造ブームがもっと一般に知れ渡り、先端を気取る人たちのムーブメントでなくなったとき、おそらくこの小説家は新境地など開拓することなく消えるだろう。入れ墨が一度入れたら一生そのまんまで最新の流行をいちいちリアルタイムで取り込み続けることなど出来ないように。一時の流行とともに心中する。それはそれで潔い。

 で、思ったのは、私が好きなのは自分に考え方や信念が似ている人たちではなく、考え方や信念をどのように生き様に反映させるか、そのスタイルこそ問題なんだということ。信条の内容など本当はどうでもいいのかもしれない。私は日頃からアンチ・モードの姿勢を強調しているが、アンチ・モードの思想の持ち主がみんな好きかというとそうではない。私とは逆の信念でも興味ある活動を行う人はきっといっぱいいる。さらに趣味が合う、合わないで言うと趣味が自分と共通 する人にろくな人はいないといつも思っていたのだ。趣味のスタイルを人生においてどう貫くか、その形こそが興味惹かれるか嫌悪の対象となるかのポイントになっているようだ。そんなことをぼんやりと考えてしまった。

 でもやっぱりベロやチンポを二股にしている人たちに身近にいて欲しくはないな。話しかけたり話しかけられたりするような距離にいたくない。遠くから興味本位 で見ていたい類のものだ。

 

 

 

 

 

 


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