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no.95 オバチャン海を渡る (04.11.05

 女優や歌手、あるいは芸術家、その他諸々自己表現を伴う活動に従事する女性は、結婚して専業主婦とかになって子供とか育てている女性より老け方が遅いのではないか?年齢より若々しかったるするのではないか?あるいは老けるにしてもひと味違った老け方をするんじゃないか?世間はそういう風に見てると思うし、あながち間違ってはいないのではないか?もちろんそこには若干の願望も介在する。Jポップアーティストもオバサンと言われる年になっても普通 の主婦とは違った風でいて欲しい・・・なんてね。

 ところがそういった願望、固定観念を覆す例に時々出くわす。一番衝撃的だったのは、日本語前衛パフォーマンスなる謎の活動を今はなき池袋スタジオ200などで展開していた波瀬満子とかいう女性。完膚無きまでに疲れ切ったオバサンだった。人前に出るのが生業とは到底思えないほど。え?誰も知らないって? NHK教育の「あいうえお」にも一時出てて、その突出したあまりにも普通のおばさんぽさが当時のTVブロス(の読者投稿欄)で話題持ちきりだったりもしたんだけど・・・知らない?
  Jポップ界で言うと、まだJポップなんて言葉が使われる前の話だけど、オルケスタ・デラ・ルスのボーカルの人も印象深かったな。誰もそれを指摘しないので不思議だった。NORAだっけ?あまりに堂々と主婦臭くて買い物かごに大根とかいれてそうで、そんな人が歌っているのをみると
まるで場末のカラオケバーに迷い込んでしまったような錯覚に陥った。でも売れてる当時もう50才ぐらいいってたのかもしれない。で、子供どころか孫までいて、大家族の家の中は大騒ぎする子供達でいつもにぎやか。庭先にははためく洗濯物の長い列。そんな光景を彷彿とされる女だった。今もあんの?オルケスタ・デラ・ルス。

 そんな昔の話どうでもいい!今の話をしろ!と言われそうだが、さらにさかのぼって80年代の話でもしようか?俺にとって80年代を代表するオバサンアーティストはフランク・チキンズだな。とかいって実は聴いたことない。当時の友人にロンドン生活日記みたいな本を見せられた。ロンドンで認められた日本人アーティストというふれこみで。当時はそういうのがイカしてたんだな。いっぱい写 真が載っててロンドンの街を闊歩する顔二つに衝撃を受けた!泥臭く湿った日本の環境を捨て、海外の洗練された都会で活動するなんてさぞかし研ぎ澄まされた風貌の持ち主かと思いきや、そこに見出されるのは余りに無防備に生活感をさらけだした主婦顔なのである。どうして?
 活動の拠点を海外に移すなんて聞くと年とってもそれなりに若さが漲った「素敵な」年の取り方しそうなイメージがあるが、実は逆なのである。
理由を考えてみたが、日本の方が女性に対して若さに価値をおくような風潮が強い。と、いうのがあるだろう。オバサン臭さに対する風当たりが日本の方が強いから日本で人前に出て活動するような人は人一倍若々しさのキープに気を使い、緊張状態を維持するが、海外ではその緊張がむしろ弱まる。あと、外人には日本人は若く見られるというか、日本人が「あ、オバサンくせえ」と感じるのと共通 の感覚を外人がもってないというのもあるだろう。オバサンになっても誰も気にしないから本人も気にしない。だから、日本にいるより高速で老ける。
 女性が女からオバサンになるきっかけとして、「結婚する(主婦になる)」「子供が出来る」というのを重要ファクターとしてみんな考えてると思うが、私はそれに「海外移住」というのを加えたい。
え?フランク・チキンズだけの話ではないかって?
 いや、そうではないね。では、90年代の話をしよう。90年代海外で名を上げたアーティストといえば少年ナイフ を思い浮かべるだろう。ソニック・ユースやニルヴァーナというった蒼々たるバンドのツアーに同行したりその活躍は華々しいが、歌っている内容はアイスクリームやキャンディのことばかりらしい。らしい?ごめん。聴いてないんだ、これも。日本の女の子っぽさを強調してるっていうか、小娘のメンタリティで勝負してそれが海外で受けたみたいだ。で、本人達を見ると実に小娘どころの騒ぎではないんだな、これが。
 さて、NYやらロンドンやらでお菓子やショッピングやお洋服の歌を歌うとウケるというこの小娘路線に追従したのがチボ・マットだ。 ギターバンドである少年ナイフに対してこちらはサンプリングを多
用したデジタルサウンドで勝負ってことだが、まあ、この娘たちの場合は前述の人たちほどあからさまにオバサンではないが、やはり無防備に生活感をさらけ出した泥臭さまき散らしているね。海外行くとみそ汁とか和食が異様に恋しくなると言う。俺はほぼ毎日みそ汁食っているが、特別 大好きなわけでもないので別に10年くらい食べなくても平気な気がするが、実はそうではないらしい。で、みそ汁のない国でアイスクリームとかの歌を歌っていると顔がみそ汁みたいになる、ぬ か臭くなっていくという衝撃の事実。海外移住って恐ろしいね。いや、そうではないのかも。
 日本にいると若さを強制される。回りにどう見られるか気にしつつ生きていくのは女性にとって相当なストレスなのだろうと思う。海外移住はその強制力からの解放なのだ。どんな老け方をしてもそれに対して何も言われることがない。彼女たちはのびのびとオバサン化する。

 で、気になるのは最近のパフィーの動向である。活動の比重をアメリカに移しつつある。 彼女たちは30ちょいぐらいだが、今まで述べてきた女性達とくらべてもまだまだ圧倒的に「女の子」である。これから猛スピードでオバチャン化し始めるのだろうか?心配だ。いや、全然心配なんかしてないけどね。そもそもファンじゃないし。 彼女たちもアイスクリームの歌があるかどうかは知らないが、そういうのと五十歩百歩、娘っぽい感性を全面 に押し出したユニットである。海外で受ける要素十分だ。で、彼女たちの場合、海外に行くしかないのだ。もう日本に彼女たちの居場所はない。
 というのは彼女たちはモデル性を基本にしたグループだから。モデル性って今作った言葉だけど、別 にモデルっぽいってことじゃないよ。全然モデルっぽくないというかむしろ対極だし。 ここで言う「モデル」とはある集団の典型的で模範的な一例を表示するってことだ。ダメ?そういう新語。例えばあゆを例にとると日本全国にあゆみたいな女の子、あゆに憧れ、あゆの真似をし、あゆみたいなファッションをキメ、あゆは自分の気持ちを代弁してくれると思う女の子がうじゃうじゃいるわけである。「真似」と書いたが、実はあゆがオリジナルで一般 のあゆっぽい女の子たちが「レプリカ」なわけじゃない。どっちが真似でどっちが先かなんてわからない。相互作用的に連動する形で支持層と代表が形成されるのである。一時のアムロちゃんもそうだった。「アムラー」とか言ってね。アムロちゃんが全国何万の「アムラー」を組織したわけではない。だが、潜在的に「アムラー」になろうとしていた時代の気分にアムロちゃんが応えたとは言える。アムロちゃんまた流行っているね。かつての「アムラー」ではないが、やはり全国にアムロ的な人がまだいっぱいいるのであろう。
 パフィーはあゆやアムロちゃん以上にそういうタイプのタレントだった。パフィー的な人たちの集団の存在を 前提にして活動が成立していたのである。だが、今や絶滅してしまった。街に「パフィーみたいな女の子」は1人もいない。モデル性を基調とするタレントは脆いのだ。
 だから海外に行く。海外にパフィー的な集団が彼女たちを待っているわけではない。少年ナイフやチボ・マットに続くジャパニーズ小娘オバサンの登場を待ち望んでいるのだ。
モデル性とは違った売り方を求められている。だからのびのびとオバサン臭くなる。別 にファンではなかったが、彼女たちがこれから急速にぬか臭くなっていくのかと思うとちょっと悲しい。だがしょうがない。宿命なのだ。


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