J-POPはいつ生まれたか(99.12.15)
J-POPという言葉がいつから使われだしたのか、よく覚えていない。私は実は筋金入りの邦楽ファンではないのだ。J-POPが好きなのはそれがダサイから(大衆的だから)なのだが、ダサければなんでもOKというわけではない。限度というものがある。ここで90年代の日本の音楽シーンを振り返っていつから邦楽が聴いてもいいものになったか考えてみよう。
@90年代初頭
J-POPという言葉はまだなかった。ユーミンやチャゲアス、小田和正といったシティ・ポップス(中島みゆきよりは貧乏臭くないといった程度のニューミュージックのこと)がヒットチャートの上位を占めいていた。歌番組は冬の時代で、浅野ゆう子や陣内、ギバちゃん、吉田栄作とかが出る恋愛ドラマとのタイアップで売れていた。
A90年代前半
ZARD、B'Z、T-BOLAN、WANDSといった変なバンド名の人たちの全盛期。夜中にテレビをつけるとチャンネルをどこに回しても同じ宝石のCMをやっていて気が狂いそうになった。変なバンド達の親会社ビーイングは、その宝石CMとのタイアップの刷り込み効果で売っていた。音楽的には全くどうでもいい連中で、さえないOLとかが買っていたと思う。
このように振り返ると、90年代前半の日本のポップミュージックシーンは心底地味で真っ当な音楽センスを持つ人間が聴けるようなものではなかった。その代わり、ハイソ志向で上品な人間が聴くための趣味のいい音楽がヒットチャートとは別のシーンとして成立していた。元フリッパーズ・ギター(ネオアコ流れ)の二人とかオリジナル・ラブ(かつてはネオGS)とかピチカート・ファイブ(YMOファミリー)とかだ。お洒落な音楽とダサイ音楽の境界がはっきりしていたのだ。渋谷系といわれるこの連中のプライドの高さは大したもので、ピチカート・ファイブの小西康陽氏は「オルタナティブ・ロックなんて私は認めない(ダサくて聴けない)」とまで行っていた。オルタナティブ・ロックもユーミンなんかと比べれば全然ダサくないと思うのだが、それすらダメだという姿勢。「何々より何々の方がお洒落であり、その何々より何々はさらにお洒落である。」といったピラミッド型のお洒落ヒエラルキーが厳然として成立していたのだ。そういヒエラルキーは90年代後半になると説得力を失ってきたような気がする。そのかわり、ヒットチャートに入る音楽も昔ほどおぞましいほどダサイものではなくなってきたと思う。庶民のレベルが向上したのだろうか。かつてあれほど不愉快だった小室サウンドもカラオケで誰かが歌っていると耳を塞ぎたくなるほどのものではなくなった。シャ乱Qが出てきたとき、「おぞましい!早くいなくなってくれ」と心底願ったものだが、今、つんくプロデュースのプッチモニとか聴いても別に不愉快にならない。J-R&Bもかつてはラブ・タンバリンズとかがお洒落にやっていたものの拡大再生産だろう。渋谷系とかいうお洒落の重箱の隅をつつくようなお洒落のネタ探しがネタ切れになり、ブリット・ポップやオルタナティブあたりの分かりやすい部分(ピラミッドの中腹)から次第に大衆化して行ったとき「お洒落な音楽を聴いて優越感に浸りたい人間」の逃げ場は次第に矮小化されて行った。挙げ句に出てきた新機軸は「モンドミュージック」とか「デス渋谷系」とか下品すれすれの上品を目指すというものでその時点でバリバリのモード音楽を目指すという彼らの志がさほど高慢なものではなくなって、「ああ、渋谷系ももうじき終わるのだな」と誰もが思ったに違いない。このようにJ-POPというさほどダサくない大衆音楽の興隆は渋谷系の衰退とリンクしていることは間違いない。
J-POPはいいがJ文学は死ね@(99.12.18)
J-POPという言葉が好きだ。下らなくて、頭悪そうで。J-R&Bも、J-RAPも。しかし、何でもJを付ければいいってもんじゃない。J文学って何それ?いやしくも言葉のセンスで勝負している人間がそれでいいの?非常にまずいことになっている。このままではJ俳句とかJ短歌とかJ将棋とか出てきそうで恐いのでとりあえずJ文学とやらの息の根を止めるべくいくつか読んでみることにする。
「インディビジュアル・プロジェクソン」阿部和重
井上三太の「トーキョー・トライブ」を小説でやろうとして失敗したようなものかぐらいの気持ちで読み始めたら、全然違っていて結構面白かった。謎やスリル、恐怖があり、最後までストーリーで引っ張ってくれる。ちゃんとエンターテイメントしているってことだ。逆に言うとこれはポップ文学、大衆小説の面白さであり、純文学ではない。だからこそ私にも楽しめるのだ。J文学が阿部和重氏の登場で盛り上がってきたものなら、阿部氏の登場をこそ単純に評価すべきであり、あとのものはただの便乗商品と考えるべきではないか。そういう訳で阿部氏の作品は素直に評価するが、まだJ文学を認めるという結論に達しない。
「チャーリーと水中眼鏡」清水アリカ
90年代初頭に「デットシティ・レイディオ」を読んだことがある。その時は結構気に入っていた。まだサイバーネタがそれほどダメになってない時代で、彼の廃墟感覚はまだその当時はかっこよかったのだ。しかし、今はどうだろう。というか清水氏が未だにいなくなってなかったことが私には驚きだ。読んでみると基本路線は何も変わっていない。廃工場、金属部品、錆と汚水でできた背景、小道具は今でもかっこいいんだろうか。ブレードランナー以降、ビジュアルとサウンドのジャンルではやり尽くされたことを小説という形でやり直して、そこに可能性はあるのだろうか。ああいった路線は私の青春時代であり、あまり悪口を言う気になれない(読めばそれなりに懐かしい興奮に包まれる)が、これを新時代の文学とか言って持ち上げてはダメだと思う。
「M」馳星周
馳星周大好き。でもきっと馳氏は本物の変態じゃないな。普通のセックスを楽しんでる人間の書く変態小説って感じだ。でもセックスに絡む感情の激しいもつれとぶつかりあい─嫉妬、苦悶、憎悪、諦念、執着が色鮮やかに生々しく書かれているので、やはりエキサイティングな小説だ。あ、J文学には入ってないの?関係ないの?こりゃまた失礼・・・
「マリ&フィフィの虐殺ソングブック」中原昌也
中原氏は下品な人間でも馬鹿でもなく、普通の適度にハイソなインテリだと思う。ゴダール好きだしね。ひょっとしてハスミ派?この本に収められている短編群も何の盛り上がりもなく、っていうか盛り上がりを軽蔑するような形で頭よさげに終わる。ニュアンス勝負ってやつ?なるほどこれは文学だ。上の3例より間違いなく文学だ。岡崎京子好きでしょう。あと、大竹伸郎とか。
そういう訳でもう少しいろいろ読むつもりだが、どうやらJ文学を盛り上げているうちの一人はあの「ジャンルを横断する評論家」佐々木敦氏らしい。元暴力温泉芸者の中原昌也が簡単にデビューできたのも友人である佐々木氏のお力添えによるのだろう。キャロライナー・レインボーらの「ローファイ・ミュージック」も一過性のブームで終わり、音楽誌で彼の名を見なくなったと思ったら、今度はJ文学だってさ。
もっとも、本格的インテリではなく、ちょっと本好きのサラリーマン程度にしか本を読まない私が文学を云々する資格は本当のところはない。かつて、インテリを目指した時代が私にもあった。しかし、なれなかった。プルーストの「失われた時を求めて」は、第一章の「スワンの恋」の半分ぐらいで挫折。ピンチョンの「競売ナンバー49の叫び(だったっけ)」は、サンリオ文庫の50ページくらいで挫折。ソレルスの「数(ノンブル)」は最初の1ページで挫折。フローベールの「プバールとペキュシュ(だったっけ?あの『紋切型辞典』のやつ)も挫折。ジョイスに至っては手にする勇気すらなかった。むしろ完全な文学音痴である。だから大衆小説しか読めないし、純文学を読んでも大衆文学レベルの楽しみ方しか出来ない。前出の小説も私の読み方とは別に純文学的な楽しみ方というのがあるのだろう。だが、私は知らない。だから、J文学の息の根を止めるとか言ったものの、私にそんな力など実はないのだ。それでもJ文学はないだろうと思う。
文学のサブカルチャーへの歩み寄りが不愉快なのだ。実作者はそんなこと意識して創作していないだろうけど。文学は偉いんだから偉そうにしてればいいじゃんと、思ってしまう。これは皮肉ではない。ソレスルを読んで面白いと言える人間は言えない人間より偉いのだ。IQも高いだろうし、育ちだっていいだろう(あくまで統計的に)。それで何が不満なのか。ついでに言うとポロックみたいな(無教養なので例えが貧しくてごめんなさい)抽象絵画を描く人間は宇多田ヒカルより偉いに決まっている。1万人の馬鹿な大衆を感動させるよりも、100人のインテリをうならせる方が偉いのだ。マスコミに低次元に流布されたサブカルチャー・ステイタス主義の神話に洗脳されてどうするんだ。真の芸術に奉仕する人間には高慢であって欲しいと思う。若者達にイケてないジャンルと思われることがそんなに恐いか。
宇宙論と現代芸術の諸分野について(99.12.18)
文学という基本的に自分と関係がないジャンルについて長々と書いてしまったが、私が読む読まないに関わらず、純文学も現代詩も存続していくであろう。そして、現代音楽も、抽象絵画もその歴史を終えることはないだろう。たとえば、現代音楽はシェーンベルグ以降、調という形式を解体し、乱数表による作曲法が作曲からあらゆる作為を消去し、ジョン・ケージがついに演奏の存在意義すら無化してしまった。「4分33秒」だっけ。演奏しないことにより、周囲に漂っている音楽以外の音、ノイズをも音楽と等価に位置づけようという試みだ。もう壊すべき形式などなく、実験としてやるべきことなど何も無くなってしまったかのようだ。しかし、それから数十年経った今も現代音楽というジャンルが消滅する気配などない。絵画史もそうだ。初めてポロックの絵を観たとき驚いたが、それも私が生まれるずっと前の絵だ。どっちが上でどっちが下か分からないような絵がずっと描かれ続けている。これはどいういうことか外部の素人には不思議でしょうがないことに思えたのだが最近、宇宙論の本で面白い示唆を得た。
宇宙は膨張している。そして、熱力学の第二法則によってエントロピーは不可逆的に増大し続ける。すると、あらゆるエネルギーは拡散し、安定のよい状態に落ちつこうとする。生命とか、文明とか、エントロピーの小ささを維持することで成立する現象はやがて終演を迎える。星もやがて全て燃え尽き、陽子、中性子といった巨視的にみると不安定な状態にある質量エネルギーも崩壊し(つまり我々が物質と呼んでいるものは全て消滅し)、宇宙はやがて光子のみが飛び回る何の変化もない広がりにやがてなってしまうだろう。これを熱的死とよぶ。しかし、どうも最近完全な熱的死は来ないらしいということが明らかにされたようだ。全ては均質化されて行くが、完全な平衡状態は常に先送りされていく。その時々の宇宙に可能なエントロピーの最大値というものがあり、それも時間の経過とともに不可逆的に増大していくので、実際のエントロピーがそれを超えることはない。むしろ、差がどんどん開いて行くらしい。つまり、完全に均質な状態は永久に来ないらしいのだ。すると、ここからは文系的な空想であるが、全物質が崩壊した時間に我々の子孫が生きているとすると、彼らは我々の想像できないやり方でそれなりに変化のある風景をみて、それなりに起伏のある人生を生きるということだ。余りに下らない過程に基づいた話で申し訳ないが。
そこからの類推もある意味ばかばかしいが、そうは言えないだろうか。すなわち、部外者には飽和状態に達したジャンルも当事者には歴史の渦中であり、現代の課題があり、流行があり、革命があり、今だ解体され残る秩序があり、決して退屈な反復ではないと。あらゆる実験が終了し、その役割を終えたかに見える芸術ジャンルこそ当事者には全然そうでないのかもしれない。安易に現代美術は終わったとか言わないことだ。
J-POPはいいがJ文学は死ねA(99.12.21)
最近、友人と話したところ、J文学運動は一文学誌の勝手な盛り上がりではなく、サブカルチャー側からの歩み寄りもあったらしい。リトル・モアとかいうサブカル雑誌が、積極的に文学を盛り上げようとしていたりもしたらしい。すると、こういう構図が浮かび上がって来はしまいか。
1.お洒落でイケてるサブカル関係者。しかし、動物的な嗅覚でその時代時代のインなものに食いついているだけなので、無意識レベルにインテリ・コンプレックスがある。つまり、センスはいいが、頭は悪いのではないかという不安を抱えている。
2.頭の良さを競う最前線にいる文学関係者。誰もが認めるインテリなので当然自尊心が高いが、同時に自分たちのいるフィールドが一般的には地味でイケてないことも自覚している(「遊んでいる若者」は文学なんか読まない)。そこにコンプレックスがある。
そして、コンプレックスをもった自尊心高きものという矛盾した存在2つがお互いを補う形で幸福にであったのがJ文学なのだといえよう。彼らはステイタス・マニアなのだ。あるフィールドで一流になれればそれでいいというのではなく、他の世界で別なステイタスの基準があればそれをクリアしなければ気が済まない。誰からも偉いと言われたい人達なのだ。この卑屈さと誇り高さが入り交じった心理は渡なんぞの理解を超えている。(もっとも、このような心理は、一流の実作者の側にではなく、二流の評論家とか編集者とかに芽生えてるものだと思う。一流になれないコンプレックスを補おうとしているのだ。)さて、読書をもう少し続けよう。
「タイル」 柳美里
かつて「青春五月党」というイカす名前の劇団があった。私が最も衝撃を受けた劇団名の一つだ。(他に衝撃を受けた劇団名は「かもねぎショット」「アイソトニックシアターポカリ」)つぶやくだけで石になりそうだ。しゃれになんねーよ。しゃれによ。東京キッドブラザーズを経て、この劇団を旗揚げしたのが他ならないこの柳美里氏だ。作家の容貌に言及するのはフェアじゃないとは思うが、彼女のルックスも特筆に値する。幸薄いという形容をこれ程までに徹底して具現化した顔が他にあるだろうか。かつて、マサコさんというバンドにサブリナという女の子がいて、小劇団やドラマにも出演していたが、この子と二人で、私の中で二大幸薄い顔となっている(サブリナはもうこの世にはいない)。さて、帯に「純文学なのにホラー」とうたっているこの小説だが、盗聴、ストーカー、快楽殺人といったサイコ・ホラー的要素盛りだくさんだが、小説内小説(メタ小説)、入り組んだ内面描写の果ての動機不鮮明(難解)な登場人物達の行動など、文学素人の気軽な介入を拒絶する純文学要素も盛りだくさんだ。ホラーファンは読まないだろう。お化け屋敷は面白いとか、恐いもの見たさとか、バイオレンスでスカっとするとか、低次元の楽しみ方は純文学では反則行為であり、それは周到に回避されている。主人公がタイルの説明をするとき、引用そのままの敬語口調になるところが一番恐いと思う。
「ドン・キホーテの論争」 笙野頼子
これは小説ではないがJ文学の作家によるエッセイ本で、もしかしたら彼女の小説より全然面白いかも知れない。内容はというと、フェミニズム少し入った女流文学者の笙野氏が新聞記者とかの「もう純文学も終わりだな。誰も読んでないし。芥川賞なんかなくなっちゃえ。」みたいな心ない発言に「わたしの純文学をそんなふうに言うなんて!キーッ!許せないっ!!」と怒りまくる話をまとめたもので、相手が全然反論してこないので自分でこれを「ドン・キホーテ論争」と名付けたものだ。特筆すべきは自分のジャンルの有効性と永続に絶大の自信を持っていることだ。ポップなジャンルは常にいつ死ぬか分からない危機感を抱えている。ロックは何度も死を宣告されてきたし、ハウスとかテクノとかドラムンベースとかいったジャンルも誰もがそれが一過性のものであるという了解の元に支持されてきた。私は演劇というジャンルを選択しているが、こんなジャンルにもう何の可能性も残ってないかも知れないという不安がつねにある。それが純文学にはないのだとすると凄く羨ましい。消費のされ方がちがうのだ。雅楽演奏家は明日に雅楽が消滅するなんて思ってないだろう。最先端とか実験とか、他ジャンルではとっくに死語と化した言葉を彼女は元気いっぱいに使う。文学ってそうなんですか。まだ、最先端があるんですか。そいつは素晴らしい。すると純文学は、雅楽のように死なないジャンルであり(つまりは文化財)、なおも前衛を持つ若いジャンルでもあるということになる。実に羨ましいことですな。
「ピアニッシモ」 辻仁成
これは小説だが、今度はJ文学ではないとされている。あとがきに島田雅彦が「もう、村上春樹のような小粋でバブリーな文学の時代は終わりだ」みたいなことを書いている。だから青春だとでも言うのだろうか。「遅れてきたサヨク」島田雅彦が「遅れてきた」青春小説を擁護するの図。最近、驚くべきニュースを聞いた。この作家の別な作品がフランスで文学賞を取ったらしい。ヌーボー・ロマンを経験したこの国は文学のジャンルとしての飽和化は日本の比ではない。文体、文法上のあらゆる実験が経験済みでもう壊すべき秩序など何もない砂漠の中で小説が書かれ続けているのだ。そんな国で、こんなものが文学として認められるなんてどういう誤解によるものなのだろうか。たとえば、映画というジャンルを考えるとヌーベルバーグで難解な映画が取られまくったこの国では、最近はリュック・ベッソンやヤン・クーネンといったわかりやすい映画を撮る人達が台頭してきている。そんな反動が文学の世界でも起きているというのだろうか。
友達が昔出ていた劇団に「つまづきの石」というのがあり、辻氏はそこがお気に入りでよく観に来ていたらしい。なるほど、確かに私は知り合いの義理でいろんな劇団の芝居を見に行くが、その95%は、こういった感じのセンチメンタリズムを売りにしているように感じる(実は「つまづきの石」はそうではなかった)。ゴキブリコンビナートのファン以外の演劇ファンは辻仁成を読むべきだということで。
挫折!!第一部「母の縮小」まではよかった。抑圧的な母と逆らえない娘の感情的な葛藤が描かれ、終盤で突然母が縮小する。カフカ的な不条理。だが、意味ありげでもあり、そんなに悪くない。問題はこの後だ。縮小した母は、分裂、増殖を初め、異生物化する。次第にシュール度を増してくる。その辺からついていけなくなる。
「い」の母はインチキの母。インチキがばれて縛り首。「ろ」の母は炉端焼きの母・・・。というような感じで延々続く。言葉遊び的要素が大きくなり、どう楽しんでいいのか分からなくなってくる。これが、アヴァン・ポップなのか。ストーリーだとか表現だとかテーマだとかの呪縛をはなれた「自由言語」達が「言語界」内で浮遊し、戯れる。言葉をそれほど愛してない私は疲れ、本を閉じる。それきり開くことはない。
挫折!!難しすぎ。感想なし。
さて、そろそろ小説を読むのも飽きてきた。J文学探索の旅もそろそろ終わりにしょうと思う。もともと読書など趣味じゃない上に、特に小説はにがてなのだ。映像抜きの文字の羅列から想像力を駆使して物語を頭の中に構築する作業は辛い。ただ、この企画を閉じる前にどうしても読んでおかなくてはならない作品がある。清野栄一の「地の果てのダンス」だ。作家でDJらしい。ついに出るべきものが出たという感じだ。実にわかりやすい。