役に立たない観劇ファイルも早いもので2回目だ(1回目は去年の夏)。このコーナーのコンセプトは、「演劇界で完全孤立!一匹狼の立場を維持出来ないなら今すぐにでも劇団を畳むつもりであるDr.エクアドルが少しでも心に引っかかる劇団は観に行って、ゴキブリコンビナートとの感性的接点を探り、安心したりおびえたりするコーナー」だ(今、決定!)。とりあえずゴキブリコンビナートより数段メジャーな団体にはそういうものがないことは確証済みなので(あったらとっくに入ってる!)、いきおいこのコーナーは、我が劇団同様小劇場界の底辺をさまよう吹けば飛ぶような弱小団体を観て、我が劇団の支持者(乾貴美子氏の予想では全国に100人ぐらい)が間違って観に行ったりしないように徹底的にこき下ろす内容となっている。その劇団のファンの方には悪意はありませんので悪しからず。
さて、今回やり玉に挙がったのは大回転劇団というところだ。我々がよく公演を打つ中野光座の正面
の居酒屋の入り口の降りてゆく階段のところにチラシが吊されていた。題名は「死と死と死と死」何の含みもない反復の題名が気になるではないか。頭悪そうで。チラシのあおり文句にも「緩慢な破滅」だとか「現実的で重たい題材をポップに」とか「病める現代社会」とか気になる語句が並んでいる。ついにライバル登場か。ヤバイ。ライバルが一個でも現れたら私はゴキブリ活動に終止符を打たなければ行けない。早速インターネットでこの劇団を検索してみる・・・すると、驚くべきことが分かった。
1.主宰の串田氏はあの老舗にして大御所自由劇場の代表者串田和美の息子らしい。
2.音楽を担当している人物はあの老舗にして大御所黒テントの代表者佐藤信の息子らしい。
なんだそりゃ。息子ばかり集まってマイナー演劇界で何をしようと言うんだ。これだけで大分安心する。とりあえず息子ってところがパンクじゃないね。確かに自由劇場はかつてアンダーグラウンド自由劇場といってアングラ演劇を銘打った最初の団体だ。でも、私が物心ついてからの自由劇場は「上海バンスキング」であり、「もっと泣いてよフラッパー」であり、状況劇場とか天井桟敷のような危険とかワイルドとかグロテスクとかコビトとかいうのとは全くイメージが異なる。初期がどうだったかなど知る由もないが・・・
黒テントにしても、交響楽にあわせて変な歌を歌うおじさんのイメージしかない。
でも、今はドラゴン・アッシュとか宇多田ヒカルとか親のイメージを子供が払拭し乗り越える時代だ。2世だからといってその恩恵でぬ
るま湯につかっているヤツばかりではないはずだ。そんな一抹の不安を胸に観に行ってはみました。
まず、ビックリしたのがその暗転の多さ。あまりに多いので数え始めたらなんと34回!これは生まれてから今までの観劇経験の中で最高記録だ。おめでとう!大回転劇団!個人的に暗転大賞を贈ります。
私なぞは映画のように瞬間移動的な場面転換が出来ないハンディを背負っている演劇は、暗転などあまりないほうがいいという価値観の持ち主で、いつも暗転ゼロを目指して台本を書いている。場面
転換も「見せる転換」として成立させた方がいいし、時間の経過とかも暗転じゃないやり方で表現できないかという方向でいつも考える。それでも、1時間を超える内容だとどうしても暗転の必要が出てきてしまう。それで、暗転と暗転の間のつまり1シーンに最低でも見せ場を一つは用意するように心がける。つまり、観る価値のあるものとして成立させるようにしている。そんな私の価値観と真っ向から対立する価値観で彼らはやっているようだ。その価値観とは一体何なのか。おそらく、ゴキブリコンビナートを除く劇団の93.7パーセントが信望するイマジネーション至上主義によるものだ。
作品には表現したいことの全てを盛り込むよりも、あえて表現し切れない部分を残すことで余韻や含みで表現の幅を持たせるという思想。これは演劇に限らず全ての表現に蔓延するコンセプトで、そのコンセプト自体は全く正しい。だが、その真理には罠がある。狭義のイマジネーション至上主義を極めていくと物質より言語、アクションより細かな仕草で表現した方がレベルの高い作品だという価値観が生じ、演劇の場合、作品をどんどんミニマルで地味でシブイものにさせていく。それは、それでいいのだろう。演劇ファンが演劇に期待しているモノなんてそんなもんだ。
しかし、私が探ろうとしている可能性はまた別のものだ。いわば広義のイマジネーション至上主義ともいうべきモノだ。役者が「机が」というとき、役者の前には机が置かれてなくてはならない。イマジネーションを徹底的に排除する。表現の含みを最小限に抑える。だが、イマジネーションは死なない。モノを見てそれがあるモノだと認知するとき、既にイマジネーションが発動しているからだ。例えばストリップを観て男性諸君は楽しいと思う。ストリップ鑑賞はイマジネーション機能なしには成立しない。服を着た女性を観て、服の裏側がどうなっているのか想像し、脱いでいく瞬間瞬間に次の光景を想像する心理作用があるからストリップショーが楽しい見せ物として成立する。そう考えると、私たちが愛する異性と楽しんでいるセックスとかジェットコースターに乗って楽しいとかおいしいモノをただ食べるという行為にさえ、イマジネーションが介在しているのではないかという可能性が生じてくる。たしかに言語やさらに言及されぬ
行間から生まれる「純度の高い?」イマジネーションの方が知的にレベルの高いモノだといえるだろう。だが、私たちの日常生活を支えているイマジネーションはそういった類のモノではない。その特別
な知的鍛錬を必要としない(本当は必要とするのだが、人間ならば幼少時に誰もがクリアしてるピアジェとかの認知心理学的世界の話なので世間的にはレベルが低い知的鍛錬と見なされる)のイマジネーションの方が強いという発想を「広義のイマジネーション主義」と呼ぼう。
広義のイマジネーション主義は、言語のみによる説得力をあえて無視し、むしろ言語を徹底的に虐げる。机を前にして「机」と呼び、物質の構成体であるところの机の喚起力に期待する。そのときこそ「机」という語彙の持つ「言分けの力」が生きてくる気がする。ゴキブリコンビナートはある公演でネズミを踏みつぶした(殺すつもりはなかったが)。ネズミ可哀想!イマジネーションのレベルなんてその程度でいいんだ。たけし軍団可哀想!稲川淳二可哀想!それでいいではないか。インテリゲンチアはそれでは済まないだろうけど。
話がそれてしまった。大回転劇団の公演「死と死と死と死」。誰と誰が乱闘するわけでもないし、高いところから転げ落ちてくる役者もいない。誰も汗なんかかかないし息を切らしている雰囲気もない。痛い思いをしている人もいない(足を踏まれて「痛い!」のシーンぐらい本当にやればいいのに)。2時間公演に35回以上の暗転。暗転一回につき15秒として1シーン平均3分前後。その一つ一つのシーンは、ビデオ屋にアツアツのカップルが訪れました。とか、ビデオ延長料金をを16万円分も滞納している客がいましたとか、高校生カップルが18禁ビデオを借りていきましたとか酔っぱらいがやってきて女性店員にセクハラめいた発言をしたと思えば突然シラフになって小説の朗読めいた独り言を言い始めるとか(もしかして、ユーモアのつもり?)たわいもないどうでもいいエピソードでつづられる。それらがビデオ屋の店員である主人公の心理に何かを蓄積させていくのだろう。暗転は行間。あえて直截的に言及されぬ
何かを読みとらなくてはならない。だが、(私の)知的レベルが低いので読みとれない。主人公と恋人の変態的な言葉のやりとり以外はたわいのない地味なシーン羅列されているようにしか思われない。その変態的な言葉のやりとりも本当の変態に会ったこともない新聞でしか変態の情報に接したことない人間が書きましたって感じのシロモノ。主人公がついに恋人を殺害する。イマジネーションレベルが低いので主人公の追いつめられた切迫感も欲望のテンションも伝わってこない。淡々と殺人事件が起こり、こともなげにその報いで主人公も死んでいく。この安易な感情移入を拒否するストーリー展開こそが現代の病を反映しているとでもいうのだろう。でも、この作品が提示する世界にリアルな実感があるわけでもなく、ああ、世の中ってコワイねとか、人間の心の奥底ってコワイね。とかいう寒々とした感想が生まれてくるわけでもない。スミスがどうしたとか、ジュネ&キャロの映画がどうしたとかイヤミなサブカル的記号のみが乱舞している。電波ちゃんとかいう精神分裂病者の妄想をポップに昇華したキャラが登場するが、弾け方が甘くて、というかいかにも正当派新劇系の弾け方なので(さすが老舗)、一体これって何なの?謎ばかりが深まる。
まあ、私のイマジネーションレベルの低次元さを非難するならいくらでも非難するがいいさ。演劇が文化的に高度なモノでなければならないなんてこれっぽっちも思ってないからね。こうして行間なんてどうでもいいという私はまたしても一匹狼。よかった、よかったまたしても自分の孤独が再確認できて。ゴキブリコンビナートはとりあえず存続。