Dr.エクアドルのJ-POP大好き目次へもどる。


宮島達夫ってまだいたの?(00.6.19)

 80年代は夜想とか読んでたね。あの頃は顔に似合わず結構耽美派だったな。根が田舎もんだからしょうがないね。18で東北の寒村から東京に出てきて、池袋西武ブックセンターとか初めて行って、「WAVE」の表紙とか見つけて、「うわー、これがとうぎょう(東京)の雑誌ってやづかい(雑誌ってやつですか)。かっこええなや」とかつぶやいて思わず表紙買いしたっけ。「東京の雑誌」とか言って福島でも売ってたかもしれないけど。
 そういうわけでペヨトル工房がいわば私の青春だったワケだけど。「WAVE」とかによく最先端のアートみたいな感じで宮島達夫とかが紹介されていた。で、そういう時代も終わり、私の耽美派時代も終わり、最先端アートにも関心がなくなり、未だ耽美を引きずっている人が激怒するような表現活動に身を投じていたりする今日この頃なのだが、まだやってたんだね宮島達夫。懐かしい名前を耳にして、思わず東京オペラシティのミュージアムに宮島達夫展を観に行ってしまいました(初期たけし風)。
 しかし、アートとかって好きになれないね。偉そうで。そういう風に言うと「え、全然偉そうじゃないよ」とか当事者の反論とか出てきそうだが、制度上の宿命だからしょうがないんだよ。芸術の定義って曖昧だけど、要はステイタス感だとみんな認めているはずだ。一枚の絵があってそれが美術作品なのかただのイラストなのか決めるとき、油彩絵の具で描かれているからだから芸術(アート)で、イラスト筆記具で書かれているから芸術でないとか、そういうものではないと思う。絵が、稲川淳二のように「楽しんでいただけましたか」と語りかけてきたらそれはエンターテイメント目的のポンチ絵であり、どことなくプライド高そうな雰囲気を持っていたらそれは芸術ってことだ。つまり、芸術は定義の中に制度上の位置づけが内包されているんだ。他のジャンルのように例えば、コマ割りがあって吹き出しがあるからマンガだとか、表現形式によって定義されるものではない。
 美術関係者の皆さん、怒ったかい。あんたらが芸術を志望したのはステイタスを求めてのことだと私は決めつけているんだよ。芸術の本質は娯楽ではなくてステイタスだって断定してるんだよ。これは確信あるんで、文句があったらメール下さい。いくらでも相手になります。
 無人島をまるごと包装紙でくるんだり、万里の長城の延長線上に爆弾を仕掛けたり、傘をただ、いっぱい立てまくったり、何が面白いのか、どこが感動のポイントがなんなのか全く分からないけどそれでいいんだよ。アートだから。それを観て大人気もなく興奮したり、夢見てるようないい気持ちになったりするためのものではないのだから。
 するとポップアートってのがあるじゃないかとか言うヤツが現れそうだが、そういうヤツは何も分かっていない。ポップアートが大衆向けのポップなアートだと思ったら大間違いだ。ポップアートは大衆のポップアイコンをモチーフとして取り上げたアートのことだ。つまり、大衆文化に言及する大衆向けでないお芸術を指してるに決まってんだろ。アンディ・ウォホールのあの作品を観て、マリリン・モンローファンが喜ぶかい?冷静になってよく考えてみな。村上隆のDOB君もポップ批評をおこなっているのであってポップそのものではない。もしかしたら我々自堕落な大衆文化享受者の敵かもしれないぜ。
 そこで宮島達夫作品だが、彼は村上隆のような軟派じゃないので好感が持てる。まじめな感じがする・・・と、思ったら東京芸大卒のバリバリアカデミズムじゃんか。素人が迂闊に手を出していいシロモノじゃないことは自明だ。こんなの俺が観に行っていいのか!(多分ダメだ)。
 さて、実際観に行くと80年代よりさらにパワー・アップしていた。発光ダイオード(LED)を用いたインスターレーションが彼の主作品なのだが、ダイオードの物量がすごいことになっていて、迫力十分だ。彼は「消えた芸術家」ではなかったのだ。広い部屋の壁一面に飾られまくった点滅するLEDは確かにインパクトがある。近くで観ようとして近づいたところで一斉に消え、完全暗転のようになる。ビックリする。コワイ。考えを改めようか。「現代芸術(美術)が人間の感情を揺さぶることもたまにはある」と。
 だが、作品解説を観ると、「死がテーマでダイオードの光を人間の生命のはかなさにたとえ、死という宿命の重さを表現した」みたいなことが書いてある。これはまったく実感がわかない。作品自体にそう思わせるリアリティーがない。やはり、これは「お芸術」だ。作品から受ける迫力と作者の訴えたいテーマがかみ合っていない。
 そう感じるのは、私の個人的な感性によるものではなくて、芸術鑑賞には知性によるワンクッションがあるということだろう。作品を観て何かを感じて、その後でいろいろ難しいことを考えて、テーマと作品体験がつながっていくのだ。私のやっている表現活動のようにその場で体験したことが全てですというわけではない。芸術はベタであってはいけないのだ。
 あのようなテーマで言えば、昔水戸で観たクリスチャン・ボルタンスキーのほうがずっと分かりやすいだろう。こちらはダイオードではなくロウソクだ。死んだ人の写真がいっぱい並んでいて、それぞれの前でロウソクがか細く揺らめいている。全てが非常にはかなげで頼りなく、不安な気持ちになる。死という現実の重さがダイレクトに伝わってくる。作り手の狂気なまでの執着が伝わってくる。エンターテイメントとして成立している芸術の希有な例だ。こうなるためには芸術家が狂人に近い人間でなくてはならないだろう。
 宮島達夫はそうなっていない。実際会場には大勢の若者が詰めかけていたがアンビエントとかリラックスとかそういう効果を楽しんでいたようだ。LEDだと、そうなってしまうだろう。まあ、それはそれで非難すべきことではないのだが・・・
 芸術が死や暴力をあつかっても、映画やマンガのようにいきなり鑑賞者をイヤーな気持ちにさせるようなモノであってはならないんだ。芸術とはストイックなものだ。

 ところで、ヤノベケンジってまだいるの?


Dr.エクアドルに関するご意見、ご希望、苦情等はこちらまでお寄せ下さい。

an-an@interlink.or.jp