ストーカーって言葉が流行語だったとき、ストーカーがテーマの異なる2本のドラマが同じクールで放映されていた。題名も両方「ストーカー」だった。どういう業界の力学でそうなってしまうかは分からない。渡部篤郎の方を観てた。渡部篤郎演じるストーカーは結構迫力があったと思う。
そして、今回は白痴ドラマだ。正確には「自閉症」であり、精神薄弱の一種として扱っては本当はいけないらしい。もちろん昔、世間で使われたような意味−引きこもりや対人恐怖、緘黙(極度な内弁慶)、登校拒否とは全く関係がない。その自閉症患者が主人公のドラマが2本放映されている。
社会の不適応者と適応者の関係を一貫して追求してきた我がゴキブリコンビナートの作品にも当然白痴はよくでてくる。フェチ心をくすぐる大好きなテーマだ。テレビドラマがこんなにも白痴ネタで盛り上がっているのに無視していていい筈はないだろう。自閉症という社会不適応者を取り巻く状況がそして、その自閉症患者の人物像がどれだけリアルでエグく描かれているかとても気になるところだ。そういうわけで最終回目前で盛り上がる2本を見比べてみることにする。
ところで白痴ドラマといえば和久井映見主演の「ピュア」が思い浮かぶ。精神遅滞者のものすごい素朴な言動に周りの人間達が癒されていくような話だったと思う。ここには「コドモ」とか「バカ」は、世間の垢−打算や騙し、裏切り、悪意、屈折にまみれていない「きれいな心」を未だ保持していて、その純な心はきっとみんなが本来的に持っている無償で健気な愛でいっぱいだろうという考え−人間の本質へのオプティミスティックな期待がある。小市民的打算がなくなればむき出しの欲望たれながし状態となり、「欲しいものがあれば奪う」「ヤリたい女がいればレイプ」といった暴力への契機が発現する・・・みたいな意地の悪い人間観は採らない。
今回の2本のドラマも割とそれに近い印象がある。ともさかりえ主演の「君がおしえてくれたこと」の「君」とはともさか演じる自閉症患者のことであり、上川達也演じる恋人がともさかのピュアな心から「世間の垢」にまみれて忘れてしまった大切なことをいろいろ学ぶのである。今回も「愛する人間にはちゃんと言葉で伝えなくてはいけないと言うことを教えて貰ったんだ」というセリフがある。うーん、感動するゼ。
知的障害者を巡る状況を陰惨なものに見せないために、イデオ・サヴァンideo−savant作戦がとられている。
精神遅滞者にしばしば特異な知的能力を発揮する者が現れる。IQは低いのに計算能力だけずば抜けていたり、記憶力がすごかったりする。それをイデオ・サヴァンとかサヴァン症候群とか呼ぶ。有名な例では山下清だ。和久井映見もともさかもフミヤもバカのくせにちょっとクリエイティブな能力を発揮していてそれを周りの人間が温かく支援するという構図が導入されている。それで生活能力ゼロの悲惨さが全面にでることがなく視聴者は変な不安に駆られたり寒い気持ちになることなくドラマを鑑賞できる。
ともさかの演じるキャラは伏し目がちにどもるソフトな山下清(というか、それを演じる芦屋雁之助)って感じだ。独り言も言わないし、あまりヤバイ感じがしない。ちょっとトロい感じで抑えている。もう少しニコニコしてたら好きになったかも。朋ちゃんファンだった私としては・・・前にNHKのドキュメンタリーで見た本物のような鬼気迫る要素はない。
無理もない。テレビドラマは、スター、すなわち時代を代表する美男美女の魅力を引き出すことを第一に考えて作られている。カワイコちゃんアイドルであるともさかの男性ファンや「大人になっても少年の心を忘れない」雰囲気が魅力の童顔中年アイドル、フミヤの女性ファンを失望させるマネはしてはならないのだ。
最初友人に電車で「次は○○駅ー○○駅ー」とアナウンスを模倣するフミヤの話を聞いたとき、「天使の消えた街」は一度見とかなきゃと思った。ビジュアル系ロックの方なみの強度のナルシズムを感じさせるフミヤさんがそこまでやるなんて。聴けばフミヤはその手の施設にまで行ってその手の方々と触れ合い、役作りに励んだそうだ。さすがフミヤ!実際見てみると「電車の中でアナウンスのマネ」みたいなおいしいシーンには出会えなかったが、独り言、目を合わさない、かみ合わない会話など、ともさかちゃんより一歩踏み込んだ役作りがなされている。さすがフミヤ!もうチェッカーズのフミヤではなく、フミヤートのフミヤである身としては、そのくらいやらないとファンへの面目が立たないといったところだろう。内容的にも少し「天使」の方が重い。何しろ自閉症の上に白血病なのだから。でも、蟹江敬三のオヤジっぷりとか大竹まことのヤクザっぷりとかちょっと迫力不足。踏み込みが甘いねえ。
自閉症患者に特有な行動とされるパニック、自傷、クレーン行動、オウム返し等についての描写はちゃんとあったのだろうか。とりあえず今回見た分に関しては見つけられなかった。これをちゃんと描いてしまうと「愛の物語」は崩壊する。
ピュアな頭脳の持ち主に表出する人間の本質が果たして愛なのか野放しな暴力状態なのか、それについての議論をここで展開するつもりはない。きっと精神遅滞者にも愛はあるかもしれない。と、一応ここではしておいてもいい。しかし、自閉症となると話は別だ。実は、自閉症患者の愛は非常に可能性として困難なのである。認識論的に不可能なのだ。何故ただの白痴では可能で自閉症だと不可能なのか。以下に述べることにする。といってもここからはドラマへの揚げ足取り的要素を帯びるので、あのドラマにまじめに感動した人は読まないように。
自閉症患者に特有の反応でオウム返しというのがある。例えば「ジュース飲みたいかい?」と訊くと「ジュース飲みたいかい?」と、そのまま返してくる。
本来ならば「はい、飲みたいです」あるいは「飲みたくない」と答えるべきものだろう。何故こういうことが起こるのか。「ジュース飲みたいかい?」という疑問形の文には「YOU」という主語が隠されている。その「YOU」を「I」に翻訳する心理作用が働くからこそ、「はい、飲みたいです」とか「飲みたくないです」という返答が可能になる。どうやら自閉症者の内部ではその心理作用が機能してないらしいのだ。
「我思う故に我あり」という有名な哲学的命題がある。哲学書など一冊も読んだことのない私でも知っている有名な命題だが、自我意識は他者との言語のやりとりを学習する過程で芽生えるものだ。他者によって「あなた」と呼ばれる経験なしに「自己」の意識は生まれない。バークリの独我論が論理的には反駁出来ないことを理解しつつも誰も実際の生活の現場で完全に独我論的に生きることはないのはそういった事情による。つまり、他我と自我はセットで意味を持つものなのだ。他者が考え、感じながら生きているように自分もそうしているという形でのみ、自己の存在に気付くことが出来る。自我意識と感情移入能力は不可分だとも言える。
自閉症患者はそういった発達過程を踏むことが出来なかった者達だ。言語は覚えても、それをコミュニケーションの手段として操ることはない。痛みを感じて誰かに助けて欲しいとき、「痛い」と言葉を発すれば他人の痛みを自分の痛みのように想像して「それは何とかしなくちゃ」とか思って(簡単に言えば同情して)助けてくれる誰かがいるだろうという意図を込めて「痛い」と言うことが出来ない。そこで、パニックとか自傷行動とかいう反応が生じる。
自閉症とは他人との関わりをさけることではなく、他人と自己との関係が心の中に生じない状態を指すのだ。自分のように何かを思ったり感じたりする他人というものを想像することができない。だから言葉を発する時も誰かと目線を合わせることもない。
それはとても「ピュア」な状態だといえる。だが、感情移入能力が不全なままで「愛」は可能だろうか。彼らは悪意とも汚い打算とも無縁だろうし、他人を侮辱したりねたんだり逆に優越感に浸ったり殺したいほど憎んだりもしないだろう。彼らは完璧に罪なき存在である。そこに天使のような「愛」だけが成立するのだろうか。非常に説得力がない気がする。
我々の多くは大量殺人などする事もなく善良な羊の顔をして小市民生活を営んでいるが、他人を蹴落とすべき競争があり、ささやかな財や地位すら投げ出して弱者と完璧に対等の土台に立とうという気もなく、適度に薄汚いエゴイズムを垂れ流しながら生きている。だからといって他者の存在を完璧に無視した地平に幸福があるなんて誰も思っていない。中途半端なエゴと脆く実体感のない献身や善意の間を不安定に行ったり来たりして人生が流れているのだ。おそらく、エゴと感情移入能力、愛とそれを裏切るような形での悪も不可分のものだろう。「コドモ」や「バカ」のケガレなき心の中に天使の如き愛のユートピアが宿っている
なんて虫のいい発想だ。