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J−POPはいいがJ文学は死ねしかしJ短歌は生きろ(勝手に)(00.08.27)

こんなメールが届いた。

  ホームページ拝読しました。 一読者として面白く読んだので、わざわざお返事するまでもないかと思ったのですが 、 たまたま検索エンジンで辿り着いたのも何かのご縁かと考えなおし、メールします。

 私が以前自称していた「特殊歌人」は、 あちこちでくどいほど説明をくりかえしていたように、 根本敬さんの「特殊漫画家」の特殊とは、意味がちがうのです。 私はどの歌人よりも「普通 」の短歌をつくっているのに、 短歌界がもともと特殊であるがゆえに「特殊」と見なされて排除されてしまう、 という皮肉をこめた肩書でした。 (本来の意味での特殊歌人は、藤原龍一郎さんとか、何人か存在します) が、いつまでたっても根本敬的な特殊と混同されるため、 かなり前から自分ではつかっていない肩書です。 (出版社などが勝手につける肩書には、基本的に抵抗しないことに決めています) 根本敬さんにお目にかかったときも、おわびしておきました。 それから、 「J短歌アーティスト」という肩書はかなり前に、 毎日新聞のコラムのネタとして「J柔道」「J宗教」などと同時に考案したものです 。 が、本気にうけとめる人があとをたたず、 朝日カルチャーセンターで一日講師をしたときも、 その肩書が堂々とパンフレットに印刷されていました。 J世の中の、J不条理を、J噛み締めております。 といったところでしょうか。 どうもお邪魔しました。 枡野浩一

 何と直々にご本人からお便りを頂戴してしまった。前に私が「いっそ何でもJをつけちゃえ」に書いたことに関してだ。たいした取材も裏付けもせずにいい加減な先入 観と感情的な決めつけで書き垂れ流されるこの「J−POP大好き」に横溢し、叩け ばほこりのように出てくる誤解と無知を実に丁寧に指摘してくださる。「恐れ入りま した」そして「ごめんなさい」。
 まず、「特殊歌人」という肩書きについてだが、根本敬氏の「特殊マンガ家」の「 特殊」とは何の関係もないと言うことだ。偶然の一致ということだ。「特殊翻訳家」 柳下毅一郎のようなクズ文化人の「とりあえず、勢いあるヤツにはあやかっちゃえ」 精神−卑屈で狡猾で感じの悪いスピリッツと一緒にしてはいけませんね。実に申し訳 なかった。
 「J短歌」という肩書きについては、実にレベルの高い境地での自称で、これも私 などの想像を超えたものだった。私は「J文学」の「J」の恥ずかしさ、頭の悪さ、 インテリとしての高邁さのかけらもないそれでいて適度に偉そうな間違ったプライド の感じ悪さについて指摘し、少し一回りしてあまりに下らなくて笑えるから認めよう という立場に一転、この際何でもJをつけちゃえという気分に切り替わったが、自分 のやっていることを「J演劇」と自称するほどの勇気はない。そこまで達観できない 。それで、私ぐらいの世代か、私よりも若干若い人たちがやっているある種の演劇− 屈折した感性を持ち込むことがオシャレだと思いこんでいる基本的に不愉快な連中の 活動をJ演劇呼ばわりすることで自分を取り巻くくだらないしがらみを整理しようと した。その点で「J」に自ら飛び込んでいった枡野氏の方が立場としては上である。 負けた!別に勝ちたくもないけど。
 まあ、短歌や俳句って社会の現役を退いた人たちのボケ防止のレクリエーションぐ らいにしか世の中の殆どの人は認識してないと思う。本当はそれは誤解で、若い人の 心をくすぐるポップでエキサイティングな短歌や俳句もあるのだと思う(実際読んで も分からなかったが、きっとそうなのだろう)。それを社会に認知させるべく「特殊 歌人」枡野氏の孤独な戦いがあるのだろう(勝手な推測)。まあ、小劇場演劇も世の 中の動きに取り残され、傷ついた人たちの癒しの場として機能しているわけで、そん なダメダメなフィールドに寄生虫のごとく間借りして活動している自分が「短歌ダッ セー」などと言う権利はこれっぽっちもないわけです。そういうわけで謝罪の意を込 めて

J短歌 誤解が解けたら 俺、ぎゃふん! 反省せよと 蝉の声ぞする

8月なので蝉です。あ、季語はいいんだっけ・・・?!


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